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【母と娘の絆】黒柳徹子が語った母親との思い出と子育て

如月 淳 如月 淳 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
目次

黒柳朝さんを語るうえで欠かせないのが、娘の徹子さんが残してきた母親の思い出です。

徹子さんは、母親を単に苦労した女性としてではなく、生活を楽しむ工夫を忘れず、子どもたちのために行動する人として記憶しています。

戦争中、娘に大豆15粒を渡した母

戦時中の食糧不足は、子どもにとっても過酷なものでした。

徹子さんは2022年のインタビューで、母親から毎日15粒の大豆を渡され、それを一日かけて食べるように言われた思い出を語っています。

一度に食べてしまえば、その後に食べるものがなくなってしまう。朝さんは、限られた食料を少しずつ食べるよう娘に教えていました。

このエピソードから伝わるのは、単に食料が不足していたという事実だけではありません。子どもが少しでも長く食べられるよう、母親が日々の食事を工夫していたことです。

洋服を手作りし、疎開先でも暮らしを整えた

徹子さんが語った母親の姿には、生活の中の工夫も数多く登場します。

婦人公論のインタビューでは、疎開する際に朝さんが自宅のソファに掛けていたゴブラン織りの布を切り、荷物を包む風呂敷として使ったというエピソードが紹介されています。

加えて、疎開先の小屋では、その布をカーテンのように利用していました。

東京の家で大切にしていたものを、別の場所で新しい生活を支える道具に変えたのです。

徹子さんは、戦前のおしゃれな母親が、疎開後にはモンペ姿で大きな籠を背負い、食料を求めて歩くようになったことにも驚きを覚えたと話しています。

95歳の母に、娘が初めてインタビューした理由

朝さんの晩年には、母と娘の関係を象徴する印象的な出来事がありました。

インタビュアーとして多くの著名人に話を聞いてきた徹子さんは、あるとき、自分の母親には十分なインタビューをしていないことに気づきます。

そこで母親に「100歳になったらインタビューしていい?」と尋ねました。

すると朝さんは、次のように答えたと徹子さんが明かしています。

「どうせするんだったら、95の今、したほうがいいわよ」

この会話をきっかけに、徹子さんは母親から、生まれる前の家族のことや、これまで知らなかった出来事を聞きました。

その対話をまとめたのが、2006年9月刊行の『チョッちゃんは、もうじき100歳』です。

同書は黒柳朝さんが著者、黒柳徹子さんが聞き手を務める母娘対談で、子育て、家族、戦争、夫との出会いなどが取り上げられています。

朝さんが亡くなったのは2006年8月16日。つまり、この本は母親が亡くなった後に刊行された作品です。

徹子さんにとっても、母親の人生を直接聞き、記録に残した大切な一冊になりました。

【2006年8月16日に死去】黒柳朝の年齢・死因と晩年

黒柳徹子母

黒柳朝さんは、2006年8月16日、95歳で亡くなりました。

イミダスの人物事典には、死因は心不全と記録されています。1910年に北海道で生まれ、95年の人生を歩みました。

晩年まで失わなかった明るさ

朝さんは、70歳を過ぎても執筆や講演などの活動を続けました。

自分の経験を文章にし、家族や暮らしについて語り、読者との交流を続けたことも特徴です。

徹子さんは2024年のインタビューで、母親は亡くなる日まで普段と変わらず普通に話していたと振り返っています。

95歳という年齢を迎えても、自分の考えを持ち、娘との会話を楽しんでいたことがうかがえます。

黒柳朝の生涯を振り返る

年 出来事
1910年 北海道に生まれる
1920年代 岩見沢高等女学校を経て東洋音楽学校で声楽を学ぶ
1932年 バイオリニストの黒柳守綱と結婚
1944年 夫が出征
1945年 東京大空襲後、子どもたちと青森へ疎開
1945年以降 青森で物々交換や行商などを行い、家族の生活を支える
1949年末 夫の守綱がシベリアから帰国
1982年 『チョッちゃんが行くわよ』を刊行
1987年 NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』が放送
2006年8月16日 心不全のため95歳で死去
2006年9月 『チョッちゃんは、もうじき100歳』刊行

【プロの結論】黒柳朝の人生から読み取れる3つのこと

黒柳朝さんの生涯には、単なる有名人の母親という枠を超えた価値があります。

特に注目したいのは、次の3点です。

1. 音楽の経験が、生活を立て直す力になった

東洋音楽学校で学んだ声楽は、若いころの教養や趣味にとどまりませんでした。戦後、結婚式や宴会で歌う仕事につながり、家族の暮らしを支える手段になりました。

身に付けた技能を、状況に応じて別の形で生かす姿勢は、朝さんの人生を理解する要点です。

2. 母親としての強さは、具体的な行動に表れていた

青森への疎開、魚との物々交換、行商、東京の家の再建。朝さんは困難を精神論だけで乗り越えたのではありません。

食べ物を確保するために移動し、商品を仕入れて売り、歌の仕事も引き受けました。

その積み重ねが家族の生活を支えたのです。

3. 自分の人生を自分の言葉で残した

『チョッちゃんが行くわよ』や『チョッちゃんのここまで来た道』は、朝さん自身が人生を振り返った作品です。

加えて、95歳で徹子さんのインタビューに応じた『チョッちゃんは、もうじき100歳』には、母娘の会話を通じて伝えられた記憶が残されています。

朝さんの人生を深く知りたい場合は、ドラマだけでなく、本人の著書や母娘対談も読むと、より立体的に理解できます。

ドラマの人物像と実在の朝さんを区別し、本人の著書と娘の証言を合わせて読むこと。 これが、黒柳朝という女性の人生を理解するうえで最も確かな方法です。

黒柳徹子の母親に関するよくある質問(FAQ)

Q1:黒柳徹子の母親の名前は何ですか?

A1:母親の名前は黒柳朝(くろやなぎ・ちょう)です。北海道生まれのエッセイストで、代表作に『チョッちゃんが行くわよ』があります。

Q2:黒柳徹子の母親は何歳で亡くなりましたか?

A2:2006年8月16日に95歳で亡くなりました。イミダスの人物事典によると、死因は心不全です。

Q3:黒柳徹子の母親がモデルになった朝ドラは何ですか?

A3:1987年放送のNHK連続テレビ小説『チョッちゃん』です。黒柳朝さんの半生をモチーフにしており、主人公の北山蝶子を古村比呂さんが演じました。全156回が放送されています。

まとめ:黒柳朝は困難を乗り越え、自分らしい人生を歩んだ女性

黒柳徹子さんの母親、黒柳朝さんは、北海道で生まれ、音楽を学び、バイオリニストの黒柳守綱さんと結婚しました。

しかし、戦争によって夫と離れ、子どもたちを連れて青森へ疎開。夫のシベリア抑留中には、行商や歌の仕事で家族を支え、東京の家を再建しました。

その後はエッセイストとして活躍し、『チョッちゃんが行くわよ』を出版。NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』のモデルとしても、多くの人に知られるようになりました。

2006年に95歳で亡くなった朝さんですが、その生き方は著書や娘の証言を通じて現在も伝えられています。

特に、徹子さんが語る戦争中の母親の姿や、95歳の母娘対談には、家族を守るために懸命に生きた一人の女性の姿が刻まれています。

黒柳朝という人物を知ることは、黒柳徹子さんの原点を知ることにもつながります。

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如月 淳

芸能・エンタメ領域を10年以上取材してきたデスク。所属事務所の公式リリース、番組公式サイト、配信サービスの告知を一次情報として確認し、裏付けのない情報は記事にしない方針です。

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