鞭打ちの刑とは、犯罪を犯した者に対し、むちや棒状の器具などで身体に打撃を加える身体刑の一種である。かつては世界各地の司法制度で採用されていたが、近代以降、多くの国で廃止された。一方、2026年現在もシンガポール、マレーシア、ブルネイ、インドネシアのアチェ州、アフガニスタンなどでは、法律や司法当局の運用によって鞭打ち刑が残っている。
注目すべきは、同じ鞭打ち刑でも国によって制度の性格が大きく異なることだ。シンガポールでは刑法上の犯罪に対する司法罰として運用され、2025年末には詐欺関連犯罪にも適用範囲が拡大した。マレーシアでは2026年4月に連邦裁判所が刑事法上のむち打ち刑の合憲性を認める判断を示した。一方、アフガニスタンではタリバン政権下で公開むち打ち刑が続き、国連が人権侵害への懸念を表明している。制度の歴史から最新の法律、実施状況、国際人権法との関係まで整理する。
【鞭打ちの刑とは】司法むち打ち刑の意味と仕組みを解説

鞭打ち刑の基本的な定義
鞭打ちの刑は、犯罪に対する制裁として、受刑者の身体にむちや棒状の器具などで打撃を加える刑罰である。法律上は「身体刑」「体罰」「司法的身体刑」などの概念に分類される。
英語では一般に「Judicial Corporal Punishment」や「Judicial Flogging」と表現される。シンガポールやマレーシアで使用される籐製の棒による刑罰は「Caning」と呼ばれ、一般的な鞭による打撃とは器具や実施方法が異なる。
重要なのは、鞭打ち刑が単なる暴力行為ではなく、国家の法律や裁判所の判断を根拠として実施される刑罰だという点である。私人による暴行や学校での懲戒とは、法的な位置づけが異なる。
司法むち打ち刑にはどのような種類があるのか
制度の比較では、主に次の3つを区別する必要がある。
- 司法むち打ち刑:刑事裁判や法律上の手続きに基づき、犯罪者に科される身体刑。
- 宗教法に基づくむち打ち刑:宗教的な法体系や地域の条例に基づき、特定の行為に対して科される刑罰。
- 懲戒としての身体刑:学校や施設などで懲戒を目的に行われる身体への処罰。司法刑とは別の制度である。
また、公開の場で実施するか、刑務所などの管理された施設内で実施するかによっても性質が異なる。アフガニスタンやインドネシアのアチェ州では、公開による社会的な見せしめの側面が問題視されている。
鞭打ち刑は死刑や懲役刑と何が違うのか
死刑は生命を奪う刑罰、懲役刑は自由を制限する刑罰である。それに対して鞭打ち刑は、身体への直接的な苦痛を刑罰の手段として利用する。
鞭打ち刑を存続させる国では、犯罪抑止や規律維持を理由に挙げることが多い。しかし、身体的な傷だけでなく、恐怖や屈辱、長期的な心理的影響が生じることから、刑罰として許容できる範囲をめぐって議論が続いている。
【鞭打ち刑の歴史と起源】古代から近代まで続いた身体刑の変遷
古代社会における鞭打ち刑
身体への打撃を刑罰や懲戒に用いる慣行は、古代にまでさかのぼる。古代の社会では、犯罪に対する制裁として、身体への苦痛を与えることが広く用いられていた。
古代ローマなどでは、身分や法的地位によって身体刑の適用に違いがあり、奴隷や社会的地位の低い人々が厳しい処罰を受ける場合もあった。身体刑は犯罪への報復だけでなく、権力関係を示す手段としても機能していた。
ただし、鞭打ち刑が一つの場所で発明され、そこから世界に広がったという単純な歴史ではない。各地の慣習、宗教、政治制度、刑事司法の発展が重なり、異なる形で成立してきた。
中世ヨーロッパと宗教的な背景
中世ヨーロッパでは、宗教的な苦行や懺悔の実践と身体への苦痛が結びついていた。肉体的な苦痛を通じて罪を悔い改め、精神的な規律を取り戻すという考え方が存在したのである。
こうした宗教的な身体観は、後世の司法刑罰にも影響を与えた。ただし、宗教的な苦行と国家が裁判によって命じる鞭打ち刑は、制度として区別する必要がある。
近世以降、司法刑罰として定着
英国の司法史を扱ったケンブリッジ大学出版局の研究によると、世俗の裁判所が正式な刑罰として鞭打ちを広く利用するようになったのは、主に16世紀以降の近世だった。
当時は軽微な窃盗などに対して、罰金や拘禁に加え、身体刑が利用されていた。とりわけ貧困層など社会的に弱い立場の人々に適用されやすく、刑罰の運用に身分格差が反映されていたことも研究で指摘されている。
その後、近代的な刑事司法制度の整備、人権思想の発展、身体の尊厳に対する認識の変化によって、多くの国が身体刑を廃止する方向へ進んだ。
植民地時代の法制度との関係
アジアの一部で現在も鞭打ち刑が残る背景には、植民地時代に形成された法制度も関係している。
シンガポールやマレーシアでは、英国統治時代に整備された刑事法体系の影響が現在の法律にも残っている。もっとも、現在の制度は独立後の各国の立法や法改正によって維持・変更されてきたものであり、植民地時代の制度がそのまま続いているわけではない。
一方、アチェ州やアフガニスタンの制度は、宗教法の解釈や地域の政治的・社会的背景と深く結びついている。歴史的な起源が共通していても、現在の法的根拠は同一ではない。
【2026年最新】鞭打ち刑が残る国・地域を徹底比較
2026年11月時点で、鞭打ち刑の制度や運用を確認できる代表的な事例として、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、インドネシアのアチェ州、アフガニスタンが挙げられる。
ただし、法律に刑罰が規定されていることと、実際に裁判で言い渡され、執行されていることは別の問題だ。以下では、制度の存続と実施状況を分けて整理する。
| 国・地域 | 主な法的根拠 | 対象となる犯罪・行為 | 2026年の状況 |
|---|---|---|---|
| シンガポール | 刑法、刑事訴訟法など | 重大な性犯罪、暴力犯罪、詐欺関連犯罪など | 制度存続。2025年末に詐欺関連犯罪へ適用を拡大し、2026年8月には一部犯罪の適用を縮小。 |
| マレーシア | 刑事訴訟法、刑法、危険薬物法、イスラム法関連法令 | 薬物犯罪、強姦、強盗、宗教法上の犯罪など | 制度存続。2026年4月、連邦裁判所が連邦法上のむち打ち刑を2対1で合憲と判断。 |
| ブルネイ | Syariah Penal Code、一般刑事法 | 宗教法上の犯罪、一部の刑事犯罪など | 法制度上存続。宗教法に基づく身体刑の実際の執行状況は限定的な公表情報しかない。 |
| インドネシア・アチェ州 | Qanun Aceh No.6/2014、No.12/2025 | 賭博、飲酒、姦通、同性間の性行為など | 制度存続。公開むち打ち刑の実施事例があり、2025年には関連法令も改正。 |
| アフガニスタン | タリバン当局の司法制度、宗教法解釈、裁判手続法など | 窃盗、飲酒、賭博、婚外関係など | 公開むち打ち刑が継続。2025年から2026年にかけて多数の実施事例が報告されている。 |
シンガポールの鞭打ち刑:2025年末と2026年の法改正に注目
シンガポールは、司法むち打ち刑を現在も制度として維持する代表的な国である。刑事訴訟法に基づき、裁判所が対象犯罪について鞭打ち刑を命じることができる。
シンガポール司法省の司法案内によると、鞭打ち刑の対象となるのは原則として50歳未満の男性で、一度に科すことができる上限は24回。女性と50歳以上の男性は対象外であり、一定の場合には代わりに追加の拘禁刑が科される。
適用される犯罪には、強姦、重大な性犯罪、暴力犯罪などがある。加えて、2025年11月4日に可決された刑事法改正法によって、同年12月30日から詐欺関連犯罪にも鞭打ち刑が導入された。
詐欺を実行した者や詐欺組織の構成員・勧誘者には、原則として最低6回、最高24回の義務的な鞭打ち刑が適用される。詐欺を助ける目的でSIMカードや政府認証情報などを提供した詐欺の実行補助者には、最高12回の裁量的な鞭打ち刑が設けられた。
一方、2026年8月17日には別の法改正も施行された。鉄道関連犯罪の一部や窃盗団への所属などについて鞭打ち刑を撤廃し、強盗未遂や恐喝など一部の犯罪では義務的な鞭打ち刑を裁量刑へ変更した。つまり、シンガポールでは制度を単純に拡大しているのではなく、犯罪類型ごとに適用範囲を見直している。
シンガポール内務省が2026年1月14日に公表した議会答弁によると、2024年に鞭打ち刑の対象となる重大な性犯罪・暴力犯罪で有罪となった人は279人だった。このうち、実際に少なくとも1回の鞭打ち刑を言い渡された50歳未満の男性は76人、50歳以上の男性は53人、女性は13人だった。279人全員が実際に鞭打ちを受けたという意味ではない点に注意したい。
制度の存続と対象範囲の変化を同時に把握するうえで、2025年末から2026年にかけての法改正は重要な転換点となっている。
マレーシアのむち打ち刑:一般刑事法とイスラム法の二つの制度
マレーシアでは、一般刑事法とイスラム法に基づく制度の双方にむち打ち刑が存在する。
一般刑事法では、刑事訴訟法第288条から第290条などが執行方法や上限、対象外となる人、医師による健康確認を規定している。成人の場合の上限は24回、若年者の場合は10回である。
一方、イスラム法に基づくシャリーア裁判所については、1965年シャリーア裁判所刑事管轄法(Act 355)が適用される。同法第2条に基づく刑罰の上限は、原則として拘禁3年、罰金5000リンギット、むち打ち6回のいずれか、またはその組み合わせである。
この二つは同じ国の制度であっても、法的根拠や対象者、刑罰の上限が異なる。一般刑事法の24回という上限を、イスラム法上の刑罰にもそのまま当てはめることはできない。
さらに2026年4月22日、マレーシア連邦裁判所は、受刑者3人がむち打ち刑の違憲性を争った審理で、2対1の多数意見により連邦法上のむち打ち刑を合憲と判断した。反対意見を示したリー・スウィーセン判事は、尊厳や生命に関する権利との関係から、連邦法上のむち打ち刑を違憲とする立場を示した。
この判断は、2026年のマレーシアにおける鞭打ち刑の存続を考えるうえで重要な司法上の動きである。なお、反対意見はイスラム法上の刑罰を対象としていない。
ブルネイの鞭打ち刑:シャリーア刑法に規定が残る
ブルネイでは、一般刑事法とイスラム法に基づく刑法が並行して運用されている。イスラム法に基づく主要な法律が、Syariah Penal Code(シャリーア刑法)である。
ブルネイ司法長官府の2026年8月27日時点の法令掲載情報でも、同法はChapter 275として掲載されている。2018年の改正命令なども記録されており、制度そのものが廃止されたわけではない。
同法には、宗教法上の犯罪に対する身体刑や、より重い刑罰の規定が含まれている。ただし、法律に規定が存在することと、実際に裁判所が判決を下し執行していることは区別しなければならない。
米国務省のブルネイ人権報告書では、シャリーア刑法に身体刑の規定がある一方、宗教裁判所による身体刑・死刑の判決や執行には制約があったことが報告されている。したがって、ブルネイについては「鞭打ち刑が存在しない」とするのも、「宗教法上の刑罰が日常的に実施されている」とするのも正確ではない。
インドネシア・アチェ州の公開むち打ち刑
インドネシアでは、全国一律の制度として司法むち打ち刑が導入されているわけではない。しかし、特別自治権を持つアチェ州では、イスラム法に基づく刑事規定が適用されている。
その中心となるのが、2014年制定の「Qanun Aceh No.6/2014(ジナヤート法)」である。飲酒、賭博、婚外の性的関係、同性間の性行為など、特定の行為についてむち打ち刑を含む処罰が定められている。
アチェ州では、公開の場で刑罰が実施されるケースがあり、刑罰そのものに加えて、見物人の前で受刑者をさらすことによる屈辱や差別が問題となっている。
アムネスティ・インターナショナルによると、2025年8月26日にはバンダ・アチェで、合意に基づく同性間の性行為を理由として有罪判決を受けた20歳と21歳の男性2人が、それぞれ76回のむち打ち刑を受けた。同団体は、こうした処罰が残酷で非人道的な扱いに当たり、拷問に該当する可能性もあると批判した。
さらに2025年11月21日には、Qanun Aceh No.6/2014を改正するQanun Aceh No.12/2025が公布された。この改正は、特に子どもが被害者となる性暴力事件について、加害者への処罰強化や被害児童の回復・賠償に関する保護を盛り込んだものだ。
改正によってアチェ州のむち打ち刑が廃止されたわけではない。2026年時点でも、地域の宗教法に基づく刑罰として存続している。
アフガニスタンの公開むち打ち刑:タリバン政権下で続く処罰
アフガニスタンでは、2021年8月のタリバンによる実権掌握後、宗教法の解釈に基づく身体刑が再び司法制度の中で大きな問題となっている。
対象となる行為には、窃盗、飲酒、薬物関連犯罪、賭博、婚外関係、同性間の性行為などが含まれる。女性については、いわゆる道徳犯罪や家庭からの逃走などを理由とする処罰も報告されている。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が2026年3月3日に公表した専門家声明によると、タリバンの事実上の最高裁判所が発表した2025年の公開むち打ち刑は少なくとも1110人に達した。内訳は男性940人以上、女性170人以上とされ、2024年の少なくとも567人からほぼ倍増している。
さらに2026年1月には、男性147人と女性15人の計162人が公開むち打ち刑を受けたと同裁判所が報告した。国連専門家は、こうした刑罰が国際人権法に違反すると警告している。
アフガニスタン人権民主主義機構(AHRDO)が2026年8月25日に発表した調査では、2022年2月から2026年4月までに、公開むち打ち刑について634件の事例、対象者2745人を記録した。調査には被害者23人の証言も含まれている。
また、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)は、2026年1月から3月までに少なくとも312人(男性269人、女性39人、少年4人)に対する司法上の身体刑を記録した。
これらの数字は集計主体や調査対象期間が異なるため、単純に足し合わせることはできない。しかし、2026年に入っても公開むち打ち刑が継続している実態を示す重要な資料である。
【鞭打ち刑の対象犯罪と法律】国によって適用範囲はどう違うのか
シンガポール:重大犯罪から詐欺関連犯罪まで
シンガポールでは、刑法や各種特別法に基づき、重大な性犯罪、暴力犯罪、薬物犯罪、器物損壊、入国管理関連の違反などが鞭打ち刑の対象となる。
特に注目されるのが、詐欺犯罪への適用拡大である。2025年12月30日以降、一定の詐欺実行犯や詐欺組織の構成員・勧誘者に義務的な鞭打ち刑が適用されるようになった。
これは、オンライン詐欺や金融犯罪への対策として刑罰を強化する政策の一環である。一方、2026年8月には一部犯罪で鞭打ち刑が撤廃・緩和されており、犯罪の性質に応じて刑罰を再設計する動きも見られる。
マレーシア:連邦刑法とイスラム法の適用範囲
マレーシアの一般刑事法では、薬物密売、強姦、強盗などの重大犯罪にむち打ち刑が関係する。例えば危険薬物法の一定の規定では、死刑を科されない場合に最低12回のむち打ち刑を伴う規定が存在する。
一般刑事法の刑罰執行については、刑事訴訟法第288条が成人24回、若年者10回という上限を定めている。また、第289条は女性や死刑を言い渡された男性などを原則として対象外としている。ただし、50歳を超える男性については、一定の性犯罪に関する例外規定がある。
イスラム法に基づく処罰では、Act 355による上限が適用される。こちらは原則として最大6回であり、一般刑事法の上限とは異なる。
アチェ州:宗教法に基づく処罰
アチェ州のジナヤート法では、賭博、飲酒、姦通などが処罰の対象となる。
2025年の改正法では、賭博に関する規定や性暴力に関する規定などが見直された。例えば、姦通については100回のむち打ち刑を定める条文が維持されている。また、改正後の規定では、子どもに対する性的虐待や強姦などについても、むち打ち刑と拘禁刑などを組み合わせた処罰が規定されている。
この点で、アチェ州の制度は単純な犯罪抑止のための刑罰にとどまらず、宗教的規範と地域自治、性や家族に関する社会規範が交差する制度となっている。
アフガニスタン:タリバン当局の司法手続き
アフガニスタンでは、タリバン当局が宗教法の解釈を司法判断に反映させている。2026年2月に発出された裁判所刑事手続法について、欧州連合庇護庁(EUAA)の国別情報は、タリバン指導者を侮辱した者に20回のむち打ちと6か月の拘禁を科す規定が盛り込まれたと報告している。
こうした制度では、犯罪の定義や処罰の根拠が、国際的に共有される刑事司法の基準と異なる場合がある。とりわけ、表現や私生活、性に関する行為まで刑罰の対象となることは、基本的人権との深刻な衝突を生んでいる。
【鞭打ち刑の実態と人権問題】身体的損傷だけではない深刻な影響
身体に残る傷と長期的な健康被害
鞭打ち刑の問題は、処罰を受ける瞬間の痛みだけではない。身体に生じる損傷や、その後の生活への影響も無視できない。
マレーシアの連邦裁判所で2026年4月に審理された事件では、受刑者側がむち打ち刑による死亡リスクを主張した。多数意見は、個々の申立人について刑罰と死亡リスクとの直接的な因果関係を示す医学的証拠が不十分だとして、違憲との主張を退けた。
一方、反対意見を示したリー判事は、身体の損傷や感染症などのリスク、長期的な身体的・精神的影響を重視した。刑罰の執行に医師が立ち会うことだけで、その刑罰が人権上許容されるかどうかの問題が解決するわけではないという論点である。
公開むち打ち刑が生む精神的苦痛と社会的差別
公開むち打ち刑には、身体への苦痛に加えて、第三者の前で処罰を受けることによる屈辱が伴う。
アフガニスタンでは、競技場など大勢の人が集まる場所で刑罰が行われた事例が報告されている。AHRDOの2026年の調査も、公開処罰が被害者の心理的苦痛や社会的な烙印を強めると指摘した。
公開処罰は、刑罰の内容を社会に示すことで犯罪抑止を図るという説明がなされる場合がある。しかし、処罰を見せしめにすることは、本人だけでなく家族や周囲の人々にも長期的な影響を及ぼす。
女性や性的少数者への不均衡な適用
鞭打ち刑をめぐる人権問題では、性別や性的指向による不平等も重要な論点である。
シンガポールやマレーシアでは、一般刑事法上、女性はむち打ち刑の対象外となる。一方、アチェ州やアフガニスタンでは、婚外関係や同性間の性行為などを理由に、女性や性的少数者が処罰の危険にさらされている。
アムネスティ・インターナショナルは、2025年8月のアチェ州の事例について、成人同士の合意に基づく同性間の性行為を犯罪化し、公開むち打ち刑を科すことを差別的な処罰として批判した。
また、アフガニスタンについて国連専門家は、いわゆる道徳犯罪を理由とした身体刑が、女性や少女、性的少数者への制度的な差別と結びついていると指摘している。
適正手続きと司法の独立性
刑罰の正当性を評価するには、処罰の重さだけでなく、裁判の公平性も確認する必要がある。
被告人に弁護士へのアクセスがあるか、証拠に反論できるか、裁判所が独立しているか、判決に対する不服申し立てが可能か。こうした要素が欠けていれば、身体刑による被害はさらに深刻化する。
AHRDOのアフガニスタン調査では、恣意的な拘束、強制された自白、弁護士や証拠・証人へのアクセス制限などの問題も記録された。身体刑の是非は、刑罰の形式だけでなく、それを決定する司法制度全体の信頼性と切り離せない。
【鞭打ち刑と国際人権法】廃止を求める国際社会の立場
国際人権法は鞭打ち刑をどう評価しているのか
鞭打ち刑をめぐる国際的な議論の中心にあるのが、拷問および残虐な、非人道的な、または品位を傷つける取扱い・刑罰の禁止である。
世界人権宣言第5条は、何人も拷問や残虐な、非人道的な、または品位を傷つける取扱い・刑罰を受けないと定めている。
また、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)第7条も、拷問や残虐な、非人道的な、または品位を傷つける取扱い・刑罰を禁止している。
国連自由権規約委員会の一般的意見第20号第5項では、第7条の禁止が身体的な痛みだけでなく精神的な苦痛にも及び、犯罪への刑罰や教育・懲戒として命じられる身体刑にも及ぶと説明されている。
加えて、拷問等禁止条約第16条は、条約上の拷問の定義には該当しない場合であっても、公務員などが関与する残虐な、非人道的な、または品位を傷つける取扱い・刑罰を防止する義務を締約国に課している。
つまり、鞭打ち刑は国内法で合法とされているだけで、国際人権法上の問題がなくなるわけではない。
拷問と非人道的な刑罰は同じなのか
法律上、拷問と残虐・非人道的・品位を傷つける取扱いは、必ずしも完全に同じ概念ではない。
拷問等禁止条約第1条では、一定の目的や故意などを伴う重大な身体的・精神的苦痛を拷問として定義している。一方、第16条は、その定義に達しない場合でも、国家機関が関与する残虐な処遇などを防止する義務を規定する。
したがって、個別の鞭打ち刑が国際法上どのカテゴリーに該当するかは、実施方法、苦痛の程度、対象者の状況、刑罰の目的などによって法的な検討が必要になる。
ただし、国連の専門家が2026年3月にアフガニスタンの公開むち打ち刑を国際人権法違反と指摘したように、司法によって命じられたという理由だけで身体への暴力が正当化されるわけではない。
世界各国の鞭打ち刑の廃止状況
近代以降、多くの国では身体刑が廃止され、懲役、罰金、更生プログラムなどを中心とする刑事司法制度に移行してきた。
その一方で、2026年現在も鞭打ち刑が残る国・地域では、犯罪抑止、宗教的規範、政治的統治、社会秩序の維持など、複数の理由が制度の存続を支えている。
廃止状況を判断する際には、次の3つを区別することが重要である。
- 法律上の廃止:刑罰を定める条文そのものが削除された状態。
- 事実上の停止:法律上は残っていても、執行されていない、または執行が確認できない状態。
- 制度の存続と実施:法律に規定が残り、実際に判決や刑罰の執行が行われている状態。
ブルネイのように法律上の規定が残る一方で宗教裁判所による実施状況が限定的にしか確認できないケースと、アフガニスタンのように多数の公開処罰が記録されているケースを、同じ「鞭打ち刑が残る国」という表現だけでまとめるのは適切ではない。
また、国際人権条約の適用は各国の批准状況によっても異なる。国内法と国際法の関係を評価する際には、どの条約に加盟しているのか、どのような義務を負っているのかも確認する必要がある。
【プロの結論】鞭打ち刑を考えるうえで重要な3つの判断基準
鞭打ち刑をめぐる国際的な対立は、単純な伝統と近代、人権と治安の二項対立では捉えきれない。各国の制度を比較すると、特に重要な判断基準が3つ浮かび上がる。
1. 法律に存在することと実際に執行されることを区別する
ブルネイのように法令に身体刑が残っていても、宗教裁判所による判決・執行状況が明確でない場合がある。一方、アフガニスタンでは国連や人権団体が多数の実施事例を記録している。
ニュースを読む際には、法律の条文、裁判所の判決、実際の執行記録を分けて確認することが欠かせない。
2. 犯罪抑止の効果と人権侵害のリスクを比較する
刑罰を存続させる政府は、犯罪抑止や治安維持を根拠にすることがある。しかし、刑罰が重ければ必ず犯罪が減るという単純な関係は成立しない。
犯罪抑止を評価するには、犯罪発生率の変化、再犯率、司法手続きの公平性、社会復帰の状況などを総合的に検討する必要がある。身体に深刻な被害を与える刑罰である以上、その必要性と比例性についても厳格な検討が求められる。
3. 受刑者の尊厳と司法制度の公平性を重視する
鞭打ち刑の問題は、身体的苦痛だけにとどまらない。公開による屈辱、性別による適用格差、宗教的・性的少数者への差別、適正な裁判を受ける権利など、さまざまな人権問題と結びついている。
また、医師の立ち会いや執行回数の上限が設けられていても、身体への苦痛を刑罰として与えること自体の正当性が自動的に認められるわけではない。
鞭打ち刑の本質的な論点は、犯罪者にどれほど強い苦痛を与えられるかではなく、国家が刑罰として人間の身体に苦痛を与える権限をどこまで持つべきかという問題にある。
【鞭打ちの刑】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:2026年現在、鞭打ち刑が残っている国はどこですか?
A1:代表的な事例として、シンガポール、マレーシア、ブルネイがあります。また、インドネシアではアチェ州、アフガニスタンではタリバン当局の司法制度のもとで身体刑が残っています。法律上の存続と実際の執行状況は国・地域によって異なります。
Q2:シンガポールの鞭打ち刑は何回までですか?
A2:シンガポールの刑事訴訟法では、一度に科す鞭打ち刑の上限は24回です。原則として50歳未満の男性が対象となり、女性と50歳以上の男性には適用されません。2025年12月30日からは一定の詐欺関連犯罪にも適用されるようになりました。
Q3:マレーシアのむち打ち刑とアチェ州のむち打ち刑は同じですか?
A3:同じではありません。マレーシアでは一般刑事法とイスラム法に基づく制度が並行しており、一般刑事法の成人上限は24回、イスラム法上のシャリーア裁判所の上限は原則6回です。アチェ州では地域のジナヤート法に基づき、犯罪の種類によって異なる回数の公開むち打ち刑などが規定されています。
Q4:鞭打ち刑は国際法で禁止されていますか?
A4:国際人権法では、拷問や残虐な、非人道的な、または品位を傷つける刑罰が禁止されています。自由権規約第7条と国連自由権規約委員会の一般的意見第20号は、犯罪への身体刑も禁止の対象として扱っています。個別の事案については、苦痛の程度や実施状況などを踏まえた法的評価が必要です。
Q5:ブルネイでは現在も鞭打ち刑が実施されていますか?
A5:ブルネイのシャリーア刑法には身体刑の規定が残っており、2026年時点でも法制度として存続しています。ただし、宗教裁判所による具体的な判決や執行については、公表されている情報が限られています。法律上の存続と実際の執行を区別する必要があります。
まとめ:2026年の鞭打ち刑は法律の存続と人権問題の両面から考える
鞭打ちの刑は、古代から近世にかけて各地の社会で利用されてきた身体刑であり、近代的な刑事司法と人権思想の発展に伴って多くの国で廃止された。しかし、2026年現在もシンガポール、マレーシア、ブルネイ、インドネシアのアチェ州、アフガニスタンなどでは、異なる法的根拠と運用のもとで制度が残っている。
2026年の重要な動きとして、シンガポールでは詐欺関連犯罪への適用拡大と一部犯罪に対する刑罰の縮小が行われた。マレーシアでは連邦裁判所がむち打ち刑の合憲性を認める一方、反対意見が人間の尊厳や身体の不可侵性を重視した。アチェ州では2025年に関連法令が改正されたものの、公開むち打ち刑は廃止されていない。アフガニスタンでは国連や人権団体が大規模な実施状況を報告している。
これらの事例から分かるのは、鞭打ち刑の存続をめぐる問題が、単なる刑罰の種類の違いではないということだ。国家の刑罰権、宗教的規範、地域自治、犯罪抑止、司法の公平性、そして人間の尊厳という複数の問題が交差している。
今後の動向を見極める際には、法律が残っているかどうかだけでなく、実際の執行件数、対象犯罪、裁判の公平性、国際人権機関の評価、廃止に向けた法改正の有無を確認することが重要になる。
刑罰の目的が社会の安全と犯罪の抑止にあるとしても、その手段が人間の尊厳を損なってよいのか。この問いこそが、2026年の鞭打ち刑をめぐる議論の中心にある。