志穂美悦子さんは、1955年10月29日、岡山県生まれ。本名は塩見悦子(結婚後の本名は長渕悦子)です。
子どもの頃から運動神経に恵まれ、小学校時代には陸上競技や水泳が得意でした。中学・高校でも陸上部に所属するなど、身体を動かすことが好きな少女だったといいます。
意外なのは、最初から芸能界を目指していたわけではないことです。
本人が過去のインタビューで語ったところによると、中学生の頃にスポーツドラマなどを見て女優という仕事に関心を持ち、その後、千葉真一さんのアクションに強く惹かれるようになりました。
特に影響を受けたのが、千葉真一さんが出演していたテレビドラマ『キイハンター』です。
当時の日本映画界では、激しい格闘やスタントを女性俳優自身がこなすことは一般的ではありませんでした。志穂美さんは、そうした状況を変える存在になりたいと考えるようになります。
マイナビニュースの本人インタビューでも、アクション女優を目指すようになった経緯が紹介されています。
若い頃の写真で注目される美しさと身体能力
若い頃のビジュアルを振り返るポイント
志穂美悦子さんの昔の画像を映画作品とともに振り返ると、単に整った顔立ちだけではなく、アクション俳優としての存在感が印象に残ります。
- 清楚で凛とした顔立ち
- 引き締まった身体としなやかな動き
- 格闘シーンでも映える表情
- 強さと女性らしさを併せ持つ雰囲気
特に1970年代の『女必殺拳』シリーズでは、格闘シーンでの表情や身のこなしが作品の大きな魅力になっています。
若い頃の写真を探す場合は、単独の宣材写真だけでなく、当時の映画ポスターや作品のスチール写真にも注目すると、時代ごとの変化が分かりやすくなります。
なお、現在の姿と比較する際には、撮影年代や役柄、写真の加工・掲載条件も考慮する必要があります。
【1973年映画デビュー】10代でJACに入り『女必殺拳』の主演へ

志穂美悦子さんの女優人生を語るうえで欠かせないのが、千葉真一さんが創設したジャパンアクションクラブ(JAC)です。
1972年、16〜17歳でJACの門をたたく
高校2年生の春、志穂美さんは雑誌『週刊明星』でJACの紹介記事を目にしました。
そこに掲載されていたのは、アクションやスタントの技術を身につける若者たちの姿でした。
志穂美さんはJACに入団したいという思いをはがきに書き、応募します。
ところが、芸能界入りを突然告げられた父親は当初猛反対。国家公務員として堅実な生活を送っていた父親にとって、娘が岡山から東京へ出てアクション女優を目指すという話は、簡単に受け入れられるものではありませんでした。
それでも志穂美さんは自分の夢を伝え続け、最終的には高校を卒業することを条件に挑戦を認めてもらいます。
その後、JACのオーディションに合格。東京の高校に転校して、本格的な訓練を始めました。
2026年6月の日刊スポーツのインタビューでも、当時の応募や父親とのやり取り、千葉真一さんとの出会いについて本人が振り返っています。
1973年『ボディガード牙』で映画の世界へ
『ボディガード牙』『ボディガード牙 必殺三角飛び』
1973年・東映
千葉真一さん主演のアクション映画。志穂美さんは前作でスタントの吹き替えを担当し、続編ではマキ役としてスクリーンに登場しました。
1973年、志穂美さんは映画『ボディガード牙』でアクションの吹き替えを担当します。
同年10月13日公開の『ボディガード牙 必殺三角飛び』では、マキ役を演じ、映画デビューを果たしました。
この時期の彼女はまだ10代。JACでの訓練を経て、実際の映画撮影の現場へと進んでいきます。
1974年『女必殺拳』で初主演をつかむ
『女必殺拳』
1974年・東映
志穂美悦子さんの代表作となったアクション映画。主演を務め、本格的な女性アクションスターとしての地位を確立しました。
初主演の経緯も興味深いものがあります。
2026年の日刊スポーツのインタビューで、志穂美さんは当初、自分は2番手の役だと思っていたと振り返っています。
もともとは、ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』に出演したアンジェラ・マオさんを迎えて映画を制作する構想がありました。しかし、アンジェラ・マオさんの出演が実現せず、志穂美さんが主演に抜擢されたのです。
本人も予想していなかった形で巡ってきたチャンスでした。
当時の空手映画ブームと、JACで鍛えた実力が重なり、志穂美さんは一躍注目を集めます。
その後も続編が制作され、『帰って来た女必殺拳』『女必殺五段拳』『必殺女拳士』など、女性が主役の本格アクション映画で活躍しました。
【出演作品と人間関係】志穂美悦子のキャリア年表
若い頃からの活動を整理すると、志穂美さんのキャリアには大きく3つの転換点があります。
1つ目は、JACでアクションを習得した10代。
2つ目は、『女必殺拳』をきっかけに主演女優として活躍した20代。
3つ目は、1980年代にアクション以外の演技にも挑戦し、俳優としての幅を広げた時期です。
年代別の出演作品・関係者一覧
『上海バンスキング』で日本アカデミー賞を受賞
『上海バンスキング』
1984年公開・深作欣二監督
戦前から戦中の上海を舞台に、ジャズに生きる人々の姿を描いた映画です。
志穂美さんは、この作品で日本アカデミー賞の優秀助演女優賞を受賞しました。
それまでのアクション女優としてのイメージだけではなく、ドラマ性のある作品でも評価されたことを示す実績です。
加えて、1985年の『二代目はクリスチャン』ではシスター今日子役を演じ、1986年には『男はつらいよ 幸福の青い鳥』にも出演しています。
こうした作品歴を見ると、志穂美さんは単に格闘シーンを演じる俳優ではなく、幅広い役柄を担える女優へと成長していたことが分かります。
【千葉真一との師弟関係】志穂美悦子を育てたJACの厳しい訓練
志穂美悦子さんと千葉真一さんの関係は、単なる映画での共演者というものではありません。
志穂美さんにとって千葉さんは、アクション俳優としての基礎を築いてくれた恩人であり、人生の方向を決めるきっかけを与えた存在でした。
JACでの訓練は週6日の本格的なもの
JACでは、月曜日から土曜日まで訓練が行われていました。
その内容は、一般的な演技レッスンとは大きく異なります。
- 殺陣や格闘アクション
- トランポリンを使った動作訓練
- 高所からのジャンプやスタント
- 水中での訓練
- 綱渡りなどの身体能力を使う練習
日刊スポーツの2026年のインタビューでは、志穂美さん自身が、手足を縛った状態で泳ぐ訓練や、ビルとビルの間を綱渡りする訓練などを振り返っています。
当時のJACは、アクションを安全かつ迫力ある映像にするための専門的な技術を学ぶ場所でした。
千葉真一は志穂美悦子にとってどんな存在だった?
千葉さんは、自分のことを「先生」や「師匠」と呼ばれるのを好まなかったとされています。
それでも志穂美さんは、2026年の取材で千葉さんを「師」として尊敬していることを語っています。
特に印象的なのは、千葉さんがJACの後輩たちを育て、次世代に主役の座を譲っていったことへの評価です。
同じJAC出身の俳優には真田広之さんもいます。
志穂美さんと真田さんは、ほぼ同じ時期にJACで活動していた仲間です。
千葉さんのもとで鍛えられた俳優たちが、映画やテレビのさまざまな分野で活躍したことは、JACの功績を考えるうえでも重要です。
千葉真一さんは2021年に亡くなりましたが、志穂美さんの2026年のインタビューからも、その教えが現在まで受け継がれていることがうかがえます。
【長渕剛との結婚】芸能界引退の理由は夫の言葉だけではなかった
志穂美悦子さんの人生を大きく変えた出来事が、1987年の長渕剛さんとの結婚です。
1986年『親子ゲーム』での共演がきっかけ
『親子ゲーム』
1986年・TBS系ドラマ
長渕剛さんと志穂美悦子さんが共演した作品。2人の関係を語る際に取り上げられる作品です。
1986年のドラマ『親子ゲーム』での共演を経て、2人は結婚へと進みました。
そして1987年に結婚。志穂美さんは当時、映画やドラマで活躍していた人気女優でした。
結婚後は俳優としての活動から離れ、家庭生活や子育てに時間を使うようになります。
引退の理由として明かされた「2つの星はいらない」
志穂美さんの芸能界引退については、2023年12月4日放送のフジテレビ系『ぽかぽか』で、本人が当時の事情を明かしています。
番組で語られたのは、長渕さんから伝えられた次の言葉でした。
「家の中に2つの星はいらない」
日刊スポーツの報道によると、志穂美さんは当初、女優を完全に辞めるつもりではなく、結婚後も仕事を続けたい気持ちがあったと説明しています。
しかし、結婚後すぐに妊娠したこともあり、子どもを抱いたときに家庭を中心にした生活を選ぶ気持ちが強くなったと振り返りました。
本人は「引退会見」をしていなかった
ここには、見落とされがちな重要な事実があります。
2026年6月の日刊スポーツのインタビューで、志穂美さんは、実際には引退会見をしておらず、結婚会見で引退を宣言したわけでもなかったと説明しています。
また、女優という仕事について、脚本や演出によって作られる虚像の世界だけでなく、自分自身の実人生を豊かにすることにも関心が向いていったと語っています。
つまり、芸能界から離れた背景には、夫の希望だけでなく、本人の人生観の変化や家庭を持つことへの思いもありました。
この2つを分けて考えると、引退の経緯がより正確に理解できます。
【2026年現在】花創作家・鬼無里まりとして新たな人生に挑戦
志穂美悦子さんの現在
花創作家・フラワーアクティビスト・シャンソン歌手
俳優としての経験を経て、花と音楽を通じた表現活動を続けています。
1987年の結婚以降、長く表舞台から離れていた志穂美さんですが、その後の人生は決して静止したものではありませんでした。
現在は花創作家としての活動に加え、シャンソン歌手としても新しい道を歩んでいます。
2010年から花創作家として活動
花の世界に本格的に取り組むようになったのは2010年です。
NHK文化センターなどの紹介資料によると、志穂美さんは花の専門家である前田玲子さん、清水はるみさんに師事し、フラワーアートの技術を学びました。
2011年には、東日本大震災の復興支援企画としてフラワーアートをまとめた写真集を出版。売り上げを被災地に寄付しました。
その後も、花を通じた支援活動に取り組んでいます。
代表的な活動の一つが「ひまわりプロジェクト」です。
花を育てることを通じて、人と地域をつなぐ活動を続けてきました。
2024年、鬼無里まり名義でシャンソン歌手デビュー
鬼無里まり(きなさまり)
2024年6月デビュー
志穂美悦子さんがシャンソン歌手として活動する際の芸名です。
2024年6月、志穂美さんは「鬼無里まり」という芸名でシャンソン歌手としてデビューしました。
デビューのきっかけとなったのは、音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんとの縁です。
湯川さんから音楽イベントへの出演を依頼されたことをきっかけに、歌の世界へ本格的に踏み出しました。
2024年11月の日刊スポーツのインタビューでは、長渕さんの力を借りずに、自分自身の力でどこまで活動できるかに挑戦したいという思いも語っています。
かつてJACでアクションを学び、主演女優として活躍した志穂美さんが、今度は歌という新しい表現方法に取り組んでいるのです。
2025年にはシャンソンコンクールで優秀賞
歌手としての活動も着実に広がっています。
志穂美さんの公式サイトには、次の実績や活動情報が掲載されています。
- 第12回東京シャンソンコンクールでグランプリ受賞
- 日本シャンソンコンクールで優秀賞受賞
- 2025年のシャンソン関連コンサートへの出演
- ソロライブ「ChansoniX」の開催
- フラワーアレンジメントのワークショップ
特に、2025年の日本シャンソンコンクールでの優秀賞受賞は、歌手としての活動を続けるうえで注目したい実績です。
2026年最新:花の活動と映画イベントにも参加
2026年も、志穂美さんは花と音楽の両方で活動を続けています。
地域の花づくり活動
2026年6月
福岡県大牟田市の大正小学校を訪問。児童たちが取り組むフラワータウンプロジェクトに参加しました。
2026年6月8日には、大牟田市の小学校で子どもたちと花を通じて交流しました。
志穂美さんは、地域を花で元気にする取り組みに共感し、ユリの寄贈なども行ってきました。
これは、単に花を作品として制作するだけではなく、地域の人々と一緒に花を育てる活動でもあります。
加えて、2026年7月5日には東京・目黒シネマで開催されたトークイベントに登壇しました。
上映作品は、1978年公開の『宇宙からのメッセージ』と、1985年公開の『二代目はクリスチャン』など、過去の出演作に関連する企画でした。
映画の世界から離れて約40年を経て、作品を通じて観客の前に立ったことも大きな話題となりました。
このイベントでは、将来的な女優復帰の可能性についても質問され、志穂美さんは100歳頃に妖怪や魔女の役を演じてみたいという夢を語っています。
2026年10月現在、公式サイトにはソロライブやNHK文化センター講座などの出演情報も掲載されています。
【志穂美悦子の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:志穂美悦子は若い頃、何歳でJACに入団しましたか?
JACのオーディションに合格したのは1972年、高校2年生の頃です。16〜17歳の10代で上京し、千葉真一さんのもとでアクションの訓練を始めました。
Q2:志穂美悦子の映画デビュー作は何ですか?
1973年公開の『ボディガード牙 必殺三角飛び』です。それ以前には『ボディガード牙』でアクションの吹き替えも担当していました。1974年には『女必殺拳』で初主演を務めています。
Q3:志穂美悦子はなぜ芸能界を引退したのですか?
1987年の長渕剛さんとの結婚後、家庭や子育てを中心とする生活に移ったためです。夫から「家の中に2つの星はいらない」と言われたことも本人が明かしています。ただし、正式な引退会見を開いたわけではありません。
Q4:志穂美悦子は現在、何をしていますか?
2026年現在は花創作家・フラワーアクティビストとして活動し、鬼無里まり名義でシャンソン歌手としても活動しています。花のイベント、ライブ、講座など幅広い分野で活躍しています。
Q5:志穂美悦子と長渕剛の結婚はいつですか?
1987年です。1986年のドラマ『親子ゲーム』での共演が2人の関係を語るうえで知られるきっかけとなっています。
Q6:志穂美悦子は日本アカデミー賞を受賞していますか?
はい。1984年公開の映画『上海バンスキング』で、第8回日本アカデミー賞の優秀助演女優賞を受賞しています。
まとめ:志穂美悦子の若い頃から現在まで変わらない挑戦心
志穂美悦子さんの若い頃を振り返ると、単なる美人女優という枠には収まらない、挑戦的な人生が見えてきます。
10代で岡山から東京へ出て、千葉真一さんのJACで厳しい訓練を積み、1973年に映画デビュー。1974年の『女必殺拳』で主演を務め、日本初の本格アクション女優としての存在感を確立しました。
その後も『上海バンスキング』で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞するなど、演技者として高い評価を得ています。
1987年の長渕剛さんとの結婚を経て俳優業から離れた後も、2010年から花創作家として活動し、2024年には鬼無里まり名義でシャンソン歌手としてデビューしました。
2026年現在の志穂美悦子さんを理解するうえで大切なのは、若い頃のアクション女優時代と現在の活動を切り離さないことです。
JACで培った身体能力、千葉真一さんから受け継いだ挑戦する姿勢、映画で磨いた表現力。それらは、花や音楽という異なる分野にもつながっています。
かつてスクリーンで華麗なアクションを披露した女性は、70代を迎えた今も新しい表現に挑み続けています。志穂美悦子さんの若い頃の写真や出演作品を見返すことは、彼女の過去だけでなく、現在の生き方を知ることにもつながるのです。
主な参考資料:日刊スポーツ(2023年・2024年・2026年の本人取材)、マイナビニュース、Challenge+、NHK文化センター、映画.com、日本アカデミー賞関連作品情報、志穂美悦子公式サイト、KBCニュース、デイリースポーツ。