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【津川雅彦の若い頃は本当にイケメン?写真に残る二枚目時代】

御影 遼 御影 遼 • 更新: • 公開: • 読了約 15 分
目次

- 子役デビューは5歳: 1945年の大映映画『狐の呉れた赤ん坊』に出演し、幼少期から映画の世界で活動していた。
- 16歳で青春スターに: 1956年の『狂った果実』で石原裕次郎の弟・春次を演じ、甘いマスクの二枚目俳優として注目を集めた。
- 二枚目から名優へ: 松竹移籍、悪役への転身、伊丹十三作品への出演を経て、幅広い役柄を演じる俳優へ成長した。

【津川雅彦の若い頃は本当にイケメン?写真に残る二枚目時代】

津川雅彦若い頃

津川雅彦さんの若い頃を語るうえで欠かせないのが、端正な顔立ちと独特の色気だ。

1950年代から1960年代にかけての津川さんは、いわゆる甘いマスクの二枚目俳優。整った目鼻立ちに加え、どこか繊細で柔らかな雰囲気を持ち、当時の青春映画やメロドラマにふさわしい存在感を放っていた。

津川雅彦の若い頃の画像や写真を探すとき、特に注目したいのは次の3つの時代である。

1. 子役時代(1945〜1954年)

まだ幼さの残る表情が印象的な時期。映画『狐の呉れた赤ん坊』をはじめ、子役として複数の作品に出演していた。

2. 青春スター時代(1956〜1960年代前半)

『狂った果実』などに出演した時期。少年らしさを残しながらも、整った顔立ちと大人びた雰囲気が際立つ。

3. 大人の二枚目時代(1970〜1980年代)

若い頃の爽やかな印象に加え、落ち着いた表情や大人の色気が増した時期。映画『マノン』などでは、若い頃とは異なる成熟した魅力を見せた。

特に興味深いのは、若い頃の写真と晩年の映像を見比べたときの変化だ。

外見だけを比較すれば、当然ながら年齢による変化はある。しかし、若い頃から持っていた目元の表情や、少し影のある雰囲気は、晩年の複雑な役柄にもつながっている。

単に「昔はイケメンだった」という話ではなく、若い頃に確立した二枚目のイメージが、その後の俳優人生に大きな影響を与えた点に注目したい。

【5歳で映画デビュー!津川雅彦の子役時代と芸能一家の家族構成】

津川雅彦さんは、1940年1月2日、京都府京都市に生まれた。

本名は加藤雅彦。父も母も俳優という家庭で育ち、映画が身近にある環境だった。

祖父は「日本映画の父」牧野省三

津川さんの家系は、日本映画史に名を残す人物が集まる芸能一家だった。

家族・親族の主な人物は次のとおり。

- 父:沢村国太郎……映画俳優。
- 母:マキノ智子……女優。マキノ省三の娘。
- 兄:長門裕之……映画・テレビで活躍した俳優。
- 母方の祖父:牧野省三……日本映画の草創期を支えた映画製作者・監督。
- 母方の叔父:マキノ雅弘……映画監督。
- 父方の叔父:加東大介……俳優。
- 父方の叔母:沢村貞子……女優・随筆家。

こうした家族構成からも、津川さんが映画界と深いつながりを持つ家庭で育ったことが分かる。

兄の長門裕之さんとは実の兄弟で、年齢差は約6歳。兄もまた俳優として活躍しており、津川さんの人生に大きな影響を与えた人物だった。

5歳で出演した『狐の呉れた赤ん坊』

津川さんの映画初出演は、1945年公開の大映映画『狐の呉れた赤ん坊』。

当時5歳だった津川さんは、阪東妻三郎さんが主演する作品に子役として出演した。

その後も『獅子の座』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)などに出演。子役として映画経験を積んでいった。

ただし、本人が当初から俳優を志していたわけではない。

KINENOTEの人物略歴などによると、津川さんは新聞記者を目指していた時期があり、俳優になることを最初から人生の目標にしていたわけではなかった。

映画一家に生まれ、幼い頃から撮影現場を知っていた一方で、別の職業にも関心を持っていたのである。

この点は、後に長く続く俳優人生を考えるうえでも興味深いエピソードだ。

【16歳の『狂った果実』で石原裕次郎と共演!若い頃の転機】

の俳優人生を大きく変えた作品が、1956年7月12日公開の日活映画『狂った果実』だ。

当時16歳だった津川さんは、この作品で石原裕次郎さんと共演。芸名の「津川雅彦」も、この作品への出演をきっかけに使われるようになった。

原作・脚本は石原慎太郎さん、監督は中平康さん。

『狂った果実』で演じたのは石原裕次郎の弟

ここで押さえておきたいのが、津川さんの役柄だ。

『狂った果実』で石原裕次郎さんが演じたのは、兄の滝島夏久。津川さんは、その弟である滝島春次を演じた。

つまり、津川さんは石原裕次郎さんの弟役として出演している。

春次は兄とは対照的に、まだ純真さを残した少年のような人物。兄の恋愛をめぐる出来事に巻き込まれていく役柄だった。

作品の中では、石原裕次郎さんの力強い存在感と、津川さんの若さや繊細さが対照的に描かれている。

この配役は、後に津川さんが持つことになる二枚目俳優としてのイメージを理解するうえでも重要だ。

当時の出演作品

『狂った果実』前後の津川さんの出演作品を整理すると、次のようになる。

- 1945年『狐の呉れた赤ん坊』
- 1953年『獅子の座』
- 1954年『山椒太夫』
- 1956年『狂った果実』
- 1956年『夏の嵐』
- 1957年『孤独の人』
- 1957年『十七才の抵抗』

1956年の『狂った果実』は、単なる出演作品の一つではない。子役から本格的な映画俳優へと進む大きな節目となった作品だった。

また、同作は石原裕次郎さんをスターダムに押し上げた映画としても知られ、日本映画史における重要な作品となっている。

【1958年の松竹移籍はなぜ?津川雅彦の経歴と転換点を年表で整理】

『狂った果実』で注目を浴びた津川さんは、1958年に日活から松竹へ移籍する。

この移籍は、当時の映画業界の事情と兄弟関係の両方が関係していた。

兄・長門裕之との人気競合を避ける移籍

兄の長門裕之さんは、すでに日活で活動していた。

同じ映画会社に所属する兄弟が、似たような青春スターとして人気を競うことは、双方の売り出し方に影響する。

映画関係の人物略歴では、兄弟の人気が競合することを避ける意図も、松竹移籍の背景として説明されている。

ただし、移籍は簡単には進まなかった。

当時は映画会社間で俳優の引き抜きを制限する五社協定が存在していたため、日活から松竹への移籍は業界内で問題となった。

その後、津川さんは1964年に松竹を離れてフリーとなり、映画会社の枠にとらわれず活動するようになる。

津川雅彦の主要経歴年表

年代 出来事・出演作品 意味・関係
1940年 京都府で誕生 本名・加藤雅彦
1945年 『狐の呉れた赤ん坊』 5歳で子役出演
1956年 『狂った果実』 16歳で本格デビュー
1958年 松竹へ移籍 兄との人気競合や五社協定が関係
1964年 松竹を離れてフリーに 活動の幅を広げる
1972年 『必殺仕掛人』 悪役への転身の重要な契機
1981年 『マノン』 ブルーリボン賞助演男優賞
1987年 『マルサの女』 助演俳優として高い評価
2000年 『葵 徳川三代』 徳川家康役で大河ドラマの主演
2006年 『寝ずの番』 マキノ雅彦名義で映画監督デビュー
2018年 8月4日、死去 享年78歳

松竹時代には、単純な青春スター路線だけではなく、大島渚監督や吉田喜重監督らの作品にも出演した。

こうした経験は、後に津川さんが幅広い役柄を演じるための土台になった。

【二枚目スターから悪役へ!津川雅彦が名優になった理由】

津川さんの俳優人生で、もう一つ大きな転機となったのが悪役への挑戦だった。

若い頃は甘いマスクの二枚目スターとして人気を得ていたが、年齢を重ねるにつれて、そのイメージが役柄の幅を狭めることもあった。

二枚目という看板は強みである一方、俳優として新しい表現を求める際には壁にもなり得る。

1972年『必殺仕掛人』で悪役に挑戦

津川さんが新境地を開いた作品の一つが、1972年に始まった『必殺』シリーズの『必殺仕掛人』だ。

従来の爽やかな青年役とは異なる、冷酷さや不気味さを持つ人物を演じ、俳優としての印象を大きく変えた。

2026年に掲載された津川さんの俳優人生を振り返る記事でも、当時の演出家・松本明さんが悪役への挑戦を勧めた経緯が紹介されている。

悪役を演じることで、それまでの二枚目イメージとは違う人間の複雑さを表現できるようになった。

『マノン』で大人の色気を表現

1981年公開の東陽一監督作品『マノン』では、若い女性と関係を持つ中年男性を演じた。

この作品では、若い頃の端正な顔立ちだけに頼らない、大人の俳優としての魅力を発揮。

ブルーリボン賞助演男優賞を受賞し、演技力でも評価を確立した。

伊丹十三作品で存在感を発揮

1984年の『お葬式』以降、津川さんは伊丹十三監督作品の常連俳優となった。

特に代表作として知られるのが次の作品だ。

- 『お葬式』(1984年)
- 『マルサの女』(1987年)
- 『ミンボーの女』(1992年)
- 『あげまん』(1990年)

『マルサの女』では国税局の査察官を演じ、独特の存在感を発揮した。

同作で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞するなど、各映画賞でも高い評価を得ている。

この時期の津川さんは、かつての二枚目スターという肩書きを超え、作品に欠かせない個性派俳優として活躍していた。

【朝丘雪路との結婚から晩年まで!2018年の死去と代表作】

津川さんの人生を振り返るうえでは、俳優としての活動だけでなく、家庭についても触れておきたい。

1973年に朝丘雪路と結婚

津川さんは1973年、女優の朝丘雪路さんと結婚した。

2人の間には、女優として活動する一人娘の真由子さんがいる。

朝丘さんも芸能界で長く活動した人物であり、夫婦ともに芸能界を代表する存在として知られた。

2人は一時期別居していたこともあったが、その後は再び一緒に生活するようになった。

朝丘さんは2018年4月27日に82歳で死去。津川さんは同年8月4日、心不全のため78歳で亡くなった。

妻を亡くしてから約3か月後のことだった。

晩年も映画・ドラマで活躍

津川さんは年齢を重ねても、俳優としての活動を続けた。

晩年の代表作として押さえておきたいのが、次の作品である。

『葵 徳川三代』(2000年)

NHK大河ドラマで徳川家康を演じた作品。威厳だけではなく、人間的な弱さや計算高さも持ち合わせた家康像を表現した。

津川さんの家康役は、後年まで印象に残る代表的な配役となった。

『相棒』

テレビ朝日の人気ドラマシリーズでは、元議員・瀬戸内米蔵役を演じた。

物語の中で独特の存在感を放ち、映画だけでなくテレビドラマでも幅広い視聴者に親しまれた。

『0.5ミリ』(2014年)

晩年の出演作として挙げられる映画。年齢を重ねた俳優としての表現力を確認できる作品の一つだ。

映画監督・マキノ雅彦としても活動

津川さんは俳優だけでなく、映画監督としても活動した。

2006年公開の『寝ずの番』で、マキノ雅彦という名前を使って監督デビュー。

その後も次の作品を手掛けている。

- 2008年『次郎長三国志』
- 2009年『旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ』

マキノ雅彦という名前は、母方の祖父・牧野省三や叔父・マキノ雅弘につながる映画一家の歴史を感じさせるものでもある。

監督としても映画界に関わったことは、津川さんのキャリアを語るうえで見逃せない。

【津川雅彦の若い頃に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:津川雅彦は若い頃、本当にイケメンだった?

A1:はい。1950年代から1960年代には、端正な顔立ちと甘い雰囲気を持つ二枚目俳優として人気を集めました。特に『狂った果実』の写真や映像で若い頃の姿を確認できます。

Q2:津川雅彦は何歳で子役デビューした?

A2:5歳です。1945年公開の大映映画『狐の呉れた赤ん坊』に出演しました。

Q3:『狂った果実』で石原裕次郎とどんな関係だった?

A3:石原裕次郎さんが演じた滝島夏久の弟、滝島春次役でした。1956年公開時、津川さんは16歳でした。

Q4:津川雅彦と長門裕之は本当の兄弟?

A4:はい。実の兄弟です。長門裕之さんが兄で、津川雅彦さんが弟です。2人とも俳優として活躍しました。

Q5:津川雅彦はなぜ松竹に移籍した?

A5:1958年に日活から松竹へ移籍しました。日活に所属していた兄・長門裕之さんとの人気競合を避ける意図も背景にあったとされています。当時の五社協定との関係でも話題になりました。

Q6:津川雅彦はいつ亡くなった?

A6:2018年8月4日です。心不全のため78歳で亡くなりました。妻の朝丘雪路さんも同年4月27日に82歳で亡くなっています。

【まとめ:津川雅彦の若い頃を知ると俳優人生の奥深さが見えてくる】

津川雅彦さんの若い頃は、5歳での子役デビューから始まり、16歳の『狂った果実』での石原裕次郎さんとの共演によって大きく注目されるようになった。

芸能一家に生まれ、兄の長門裕之さんと同じ俳優の道を歩みながらも、松竹への移籍やフリー転向など、決して平坦ではない道のりを経験している。

加えて、二枚目スターとしての人気に安住せず、1970年代以降は悪役や個性的な人物にも挑戦。『マノン』『マルサの女』などで演技力を高く評価され、晩年には『葵 徳川三代』の徳川家康役でも強い印象を残した。

津川雅彦さんの魅力は、若い頃の美しい容姿だけではない。二枚目という出発点から、自分の役柄を広げ続けた俳優としての変化こそが、長く記憶される理由だ。

2018年に亡くなった後も、出演作品や残された映像を通じて、その幅広い演技に触れることができる。

主な参考資料:国立映画アーカイブ、JFDB(日本映画データベース)、KINENOTE、日本アカデミー賞公式サイト、NHK関連番組資料、デイリースポーツ、日刊スポーツ、デイリー新潮。

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