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益荒雄とは何者?白いウルフの経歴と益荒雄旋風、2026年現在まで徹底解剖

硲 俊 硲 俊 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
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益荒雄(ますらお)は、1980年代の大相撲で鮮烈な存在感を放った元関脇の力士です。本名は手島広生。細身ながら筋肉質な体格と、相手に先手を取らせない鋭い速攻相撲で人気を集め、「白いウルフ」の愛称で親しまれました。最高位は西関脇。十両優勝5回という歴代最多記録に加え、三賞5回、金星2個という実績を残しています。

現役引退後は親方として阿武松部屋を創設し、日本相撲協会の理事や審判部長も務めました。しかし、2019年9月26日、体調不良を理由に協会を退職。2026年現在の立場を理解するには、現役時代の「益荒雄旋風」だけでなく、親方として歩んだ約29年間と退職時の経緯も押さえる必要があります。

【プロフィール】益荒雄広生とは?本名・経歴・押尾川部屋時代

益荒雄

益荒雄は、福岡県田川郡糸田町出身の元大相撲力士です。1961年6月27日生まれで、17歳のときに角界入りしました。

日本相撲協会の公式力士プロフィールでは、最後の四股名を「益荒雄宏夫」、本名を「手島広生」としています。一方、現役時代の経歴を紹介する際には「益荒雄広生」という表記も使われます。広生は本名に由来する名前で、宏夫は引退時の四股名です。

押尾川部屋への入門と出世

益荒雄が入門したのは、元大関・大麒麟が師匠を務めていた押尾川部屋でした。ベースボール・マガジン社の相撲関連連載によると、師匠から強く勧誘され、飯塚高校を2年修了した時点で中退して角界入りしています。

入門前には柔道を経験しており、福岡県大会にも出場していました。こうした経験に加え、入門後の厳しい稽古が、後に評価される足腰の強さや相手の懐に入る動きにつながっていきます。

1979年3月場所に初土俵を踏み、1983年7月場所に新十両へ昇進。このときに新しい四股名として「益荒雄」を名乗るようになりました。

益荒雄という名前には「剛勇な男子」という意味があります。故郷の糸田町後援会から贈られた化粧まわしには、玄界灘の荒波や旭日、日本一の槍を表現した勇壮なデザインが施されていました。

1985年9月場所には新入幕を果たします。その後は幕内と十両を行き来する時期もありましたが、1986年11月場所に11勝4敗を挙げて初の敢闘賞を受賞。翌年、相撲界の注目を一気に集めることになります。

【益荒雄旋風】なぜ強かった?白いウルフの由来と1987年の快進撃

益荒雄の名前を語るうえで欠かせないのが「益荒雄旋風」です。特に1987年3月場所は、当時の横綱・大関陣を次々と破る快進撃によって、相撲ファンに強烈な印象を残しました。

2横綱・4大関を破った新小結の衝撃

1987年3月場所、益荒雄は新小結として土俵に上がりました。当時の上位陣には、横綱の千代の富士と双羽黒、大関の北天佑、大乃国、朝潮、若嶋津らがいました。

益荒雄はこの場所で2横綱・4大関を破る活躍を見せます。最終成績は9勝6敗。優勝こそ逃したものの、上位陣を次々と倒したインパクトは非常に大きく、殊勲賞を獲得しました。

さらに翌5月場所も東小結として活躍し、2横綱・2大関を破って再び殊勲賞を受賞。1986年11月場所から1987年5月場所まで4場所連続で三賞を獲得する快挙を成し遂げました。

この一連の活躍が「益荒雄旋風」と呼ばれたのです。

「白いウルフ」という愛称が生まれた理由

益荒雄のもう一つの有名な呼び名が「白いウルフ」です。

当時の横綱・千代の富士には「ウルフ」という愛称がありました。益荒雄は、その千代の富士を連想させる鋭い相撲と、筋肉質で引き締まった体格などから「白いウルフ」と呼ばれるようになります。

日本相撲協会の公式クイズでも、この愛称の由来が紹介されています。単なるニックネームではなく、当時の相撲ファンが益荒雄の相撲に感じたスピード感や存在感を象徴する呼び名でした。

益荒雄旋風を支えた相撲の特徴

益荒雄の持ち味は、素早い立ち合いと鋭い差し身でした。

ベースボール・マガジン社の相撲関連連載では、立ち合いから右を差し、左上手を引いて攻める型が紹介されています。内掛けや外掛けも織り交ぜるスピード相撲は、相手が十分な体勢を整える前に勝負を動かすものでした。

当時の上位力士は、体格や圧力を生かした相撲を得意とする強豪ぞろいでした。そこに益荒雄の素早い攻めがぶつかったことで、番付上の実績だけでは予測できない勝負が生まれました。

また、出身地の糸田町は炭鉱不況や糸田線の廃止など、地域経済にとって厳しい時期を迎えていました。そうしたなかで地元出身の益荒雄が全国の強豪を破ったことは、町にとっても大きな明るい話題となりました。

【通算成績】十両優勝5回、三賞5回、金星2個の価値

益荒雄の実績を振り返ると、関脇まで昇進した幕内力士としての強さだけでなく、十両での圧倒的な成績も際立っています。

通算成績と主なタイトル

阿武松部屋の公式プロフィールによると、益荒雄の生涯戦歴は387勝329敗86休(68場所)。幕内戦歴は111勝125敗64休(20場所)です。

なお、相撲記録を扱う一部のデータベースでは休場数や場所数に異なる表示もあります。ここでは、阿武松部屋公式プロフィールに掲載されている数値を基準としています。

主な実績は次のとおりです。

  • 最高位:西関脇
  • 通算勝敗:387勝329敗
  • 幕内成績:111勝125敗
  • 十両優勝:5回
  • 殊勲賞:2回
  • 敢闘賞:2回
  • 技能賞:1回
  • 金星:2個
  • 初土俵:1979年3月場所
  • 引退:1990年7月場所

十両優勝5回は歴代最多の記録

益荒雄の記録のなかでも、特に注目したいのが十両優勝5回です。

日本相撲協会は2022年の公式クイズで、益荒雄を十両優勝の最多記録保持者として紹介しました。さらに2025年8月の公式クイズでも、引退力士を含めた十両優勝最多の力士として益荒雄を取り上げています。

十両優勝は、幕内昇進を目指す力士にとって大きな目標です。幕内で活躍する実力がありながら、けがなどの影響で十両に下がることもあった益荒雄は、そのたびに結果を残しました。

幕内での華やかな活躍だけでなく、十両でも繰り返し優勝できる実力を備えていたことが、益荒雄の力士としての大きな特徴です。

三賞5回と金星2個の意味

三賞は、幕内で優れた成績を残した力士に贈られる賞です。益荒雄は殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回を獲得しました。

特に1986年11月から1987年5月までの4場所連続受賞は、益荒雄旋風を象徴する記録です。

また、金星は平幕力士が横綱に勝った際に与えられる特別な記録です。益荒雄は現役時代に2個の金星を獲得しました。

関脇まで昇進した実力、横綱を倒した実績、十両優勝5回という記録を総合すると、益荒雄は単なる一時的な人気力士ではなく、複数の番付で実力を証明した力士だったことが分かります。

【親方としての転身】押尾川部屋から阿武松部屋創設まで

益荒雄は1990年7月場所を最後に現役を引退しました。引退後は親方として後進の指導に携わり、最終的には自身の相撲部屋を持つまでになります。

1990年の引退から大鵬部屋への移籍

引退後、益荒雄は年寄として相撲界に残り、押尾川部屋で部屋付き親方として指導に携わりました。その後、年寄名跡の阿武松を取得し、大鵬部屋へ移籍します。

相撲部屋情報を扱う資料では、1992年9月に阿武松を襲名した経緯が紹介されています。押尾川部屋を離れた後、大鵬部屋で部屋付き親方として活動し、独立への準備を進めました。

1994年10月、阿武松部屋を創設

1994年10月、益荒雄は大鵬部屋から独立し、阿武松部屋を創設しました。

これは現役時代の名声を生かした単なる看板づくりではありません。自身が経験してきた稽古や指導の考え方を次世代に伝える、新しい指導者としての出発点でした。

ベースボール・マガジン社が掲載した相撲関係者による回顧記事では、阿武松部屋から小結・若荒雄や阿武咲などの関取が育ったことも紹介されています。

現役時代の益荒雄を知る人々が評価していたのは、厳しい稽古への姿勢と、妥協しない指導でした。土俵上で見せた勝負へのこだわりは、親方としての指導にも受け継がれていたようです。

益荒雄と相撲界の関係者・組織の変遷

益荒雄の歩みを理解するうえでは、所属した部屋や関係者とのつながりも重要です。主な転換点を整理すると、次のようになります。

時期 人物・組織 関係・出来事
1979年3月 押尾川部屋・大麒麟 17歳で初土俵。元大関・大麒麟のもとで力士として出発。
1987年 千代の富士・双羽黒ほか 上位陣を破り、益荒雄旋風を巻き起こす。
1990年7月 日本相撲協会 現役引退。親方として後進の指導へ。
1990年代前半 大鵬部屋 押尾川部屋を離れ、部屋付き親方として活動。
1994年10月 阿武松部屋 独立して部屋を創設。
2018年 日本相撲協会 理事に就任し、審判部長を務める。
2019年9月26日 大道・阿武松部屋 協会を退職。元大道の音羽山親方が阿武松を襲名し、部屋を継承。
2022年7月 福岡県糸田町 故郷に化粧まわしを寄贈し、地元とのつながりを示す。

このように、益荒雄の人生には、現役力士、部屋付き親方、部屋の創設者、協会理事という複数の段階があります。特に阿武松部屋の創設は、現役時代の実績を指導者としての仕事につなげた大きな転換点でした。

【2019年退職】日本相撲協会を離れた理由と部屋継承

益荒雄の親方人生における大きな転換点は、2019年9月26日です。この日、日本相撲協会は理事会で年寄名跡の変更と阿武松部屋の継承を承認し、益荒雄の退職も決定しました。

退職理由は高血圧などの体調不良

2019年当時、益荒雄は日本相撲協会の理事であり、審判部長という重要な役職に就いていました。

しかし、2019年7月の名古屋場所から休場し、9月の秋場所も休場。デイリースポーツや日刊スポーツなどの報道では、高血圧を含む体調不良が退職の主な理由として伝えられています。

8月には協会に退職の意向を伝え、慰留も受けたものの、意思は変わらなかったと報じられました。

現職理事が任期途中で角界を去ることは異例でしたが、本人の健康状態を考慮した決断だったことが、当時の報道から読み取れます。

阿武松部屋は元大道が継承

益荒雄の退職に伴い、阿武松部屋は元幕内・大道の音羽山親方が引き継ぐことになりました。

日本相撲協会の2019年9月26日付公式発表によると、益荒雄は年寄「阿武松」から「音羽山」へ名跡を変更し、元大道の音羽山親方が「阿武松」を襲名。新しい阿武松親方として部屋を継承しました。

この名跡交換と部屋継承は、同日の理事会で承認されています。つまり、阿武松部屋そのものがなくなったわけではありません。師匠が益荒雄から元大道へ交代し、部屋の運営は引き継がれたのです。

なお、退職について日本相撲協会が公表した公式発表は、退職日と名跡変更、部屋継承を記録したものです。高血圧などの健康上の事情は、当時の報道によって伝えられた内容として区別する必要があります。

【2026年現在】益荒雄の現在・評判・よくある誤解

2026年11月現在、益荒雄は2019年に日本相撲協会を退職した元関脇であり、元阿武松親方です。現役の親方や相撲協会理事として活動している人物ではありません。

2026年現在の立場と公に確認できる活動

阿武松部屋の公式サイトでは、益荒雄は「先代阿武松親方」として紹介されています。本名、愛称、現役時代の最高位、通算成績、十両優勝回数なども掲載されています。

現在の師匠は、元幕内・大道の阿武松健二親方です。部屋の公式プロフィールでも、益荒雄と現在の師匠は明確に区別されています。

また、2022年7月には故郷の福岡県糸田町を訪れ、現役時代に関係する化粧まわしを町に寄贈しました。糸田町の公式サイトには、元関脇益荒雄・先代阿武松親方の手島広生さんとして紹介され、寄贈の経緯も記録されています。

この出来事は、引退後も地元との関係が続いていることを示す公的な記録です。一方、2026年時点で新たな相撲協会の役職や現役の指導者としての復帰が発表された事実は確認できません。

益荒雄の評判は?力士としても指導者としても残したもの

益荒雄の評価を考える際、注目すべきなのは現役時代と親方時代の両方です。

力士としては、横綱・大関を相手に真っ向から勝負を挑む速攻相撲が特徴でした。短期間の旋風だけでなく、十両優勝5回という数字も残しており、実力を長期にわたって証明しています。

指導者としては、阿武松部屋を1994年に創設し、後進を育ててきました。相撲専門誌の関係者による回顧記事では、稽古に精進する姿勢や妥協しない生き方が、益荒雄の人物像を表すものとして紹介されています。

2022年の糸田町による化粧まわし寄贈の紹介も、地元での知名度や功績が引き続き記憶されていることを示しています。

益荒雄について混同されやすい3つのポイント

1.本名と四股名は同じではない

本名は手島広生です。益荒雄広生という表記も経歴紹介などで使われますが、引退時の四股名は益荒雄宏夫でした。日本相撲協会の公式プロフィールでも、この本名と四股名が区別されています。

2.最高位は大関ではなく関脇

益荒雄は横綱や大関を倒す活躍で有名になりましたが、自身の最高位は西関脇です。上位陣を破った実績と、自身が到達した番付は分けて理解する必要があります。

3.2019年の退職後も阿武松部屋は存続している

益荒雄が協会を退職した際、部屋は元大道の親方に引き継がれました。益荒雄本人の退職と、阿武松部屋の閉鎖は別の出来事です。

【益荒雄に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:益荒雄の本名は何ですか?
A1:本名は手島広生(てしま・ひろお)です。引退時の四股名は益荒雄宏夫でした。

Q2:益荒雄の最高位は何ですか?
A2:最高位は西関脇です。1987年7月場所に関脇へ昇進しました。

Q3:益荒雄は現在も阿武松部屋の師匠ですか?
A3:いいえ。2019年9月26日付で日本相撲協会を退職しました。阿武松部屋は元大道の阿武松健二親方が継承しています。

Q4:益荒雄旋風とは何ですか?
A4:1987年3月場所を中心に、益荒雄が横綱2人・大関4人を破るなど上位陣を相手に大活躍した現象です。素早い立ち合いと鋭い速攻相撲で大きな注目を集めました。

Q5:益荒雄の十両優勝は何回ですか?
A5:5回です。日本相撲協会も引退力士を含めた十両優勝の最多記録として紹介しています。

まとめ:益荒雄が相撲史に残した功績と2026年現在の評価

益荒雄は、1980年代の大相撲に「益荒雄旋風」を巻き起こした元関脇です。千代の富士になぞらえた「白いウルフ」の愛称で人気を集め、最高位は西関脇。通算387勝329敗、十両優勝5回、三賞5回、金星2個という実績を残しました。

1990年の現役引退後は親方に転身し、1994年10月に阿武松部屋を創設。2018年には日本相撲協会の理事に就任し、審判部長も務めました。しかし、体調不良により2019年9月26日付で協会を退職しています。

2026年現在は、元阿武松親方として公式サイトや地元自治体の記録にその功績が残されています。部屋の師匠は元大道の阿武松健二親方に交代しましたが、益荒雄が築いた部屋の歴史は受け継がれています。

益荒雄を評価する際に大切なのは、1987年の旋風だけで人物像を判断しないことです。幕内で横綱・大関を倒した勝負強さ、十両優勝5回という安定した実力、そして引退後に部屋を創設して後進を育てた指導者としての歩み。この3つを合わせて見ることで、「白いウルフ」が大相撲に残した本当の功績が見えてきます。

主な根拠資料: 日本相撲協会公式力士プロフィール・公式クイズ、阿武松部屋公式プロフィール、ベースボール・マガジン社『相撲』関連回顧記事、福岡県糸田町公式記録、日本相撲協会2019年9月26日付理事会発表、当時の日刊スポーツ・デイリースポーツ報道。

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