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米津玄師の昔を徹底解剖!徳島の少年時代からハチ名義、2026年の現在まで

天音 栞 天音 栞 • 更新: • 公開: • 読了約 24 分
目次

米津玄師の昔を振り返ると、現在の圧倒的な存在感からは想像しにくい、絵を描くことが好きだった徳島県出身の少年時代にたどり着く。1991年3月10日生まれの米津玄師は、幼い頃から漫画家に憧れ、中学生になると音楽に興味を持ち始めた。やがて友人とバンドを結成し、2009年には「ハチ」名義でニコニコ動画にVOCALOID楽曲を投稿。2012年5月16日には、本人が歌う初のアルバム『diorama』を発表した。

2026年10月現在、35歳となった米津玄師は、国内外で活躍するシンガーソングライターとして新たな作品を発表し続けている。昔の写真や子供時代のエピソード、中学・高校時代のバンド活動、ハチとしてのボカロP時代をたどると、現在の独創的な音楽や映像表現につながる創作の原点が見えてくる。

【米津玄師の子供時代】徳島で育った少年は漫画家を夢見ていた

米津玄師昔

1991年生まれ、徳島県出身の米津玄師

米津玄師は1991年3月10日生まれ。出身地は徳島県である。公式プロフィールでも、作詞・作曲・絵を手がけるクリエイターとして紹介されている。

現在は音楽家として知られる米津だが、幼少期から音楽一筋だったわけではない。2015年の歌ネットの本人インタビューでは、音楽を本格的に聴き始めたのは中学生になってからで、それ以前は絵を描いて過ごすことが多かったと振り返っている。

幼稚園頃から自然に絵を描き始め、好きだった作品は『ドラえもん』や『NARUTO -ナルト-』『ONE PIECE』など。少年ジャンプの漫画に親しみ、漫画家になることを夢見ていたという。

2024年8月に出演したTBS系「日曜日の初耳学」でも、幼少期の自分について語っている。本人が明かしたのは、周囲とのコミュニケーションに苦手意識を持っていたというエピソードだった。

「引っ込み思案な子供でした」

絵を描いたり音楽に親しんだりすることは、そうした内向的な性格を補うものでもあったという。

漫画家への憧れと『NARUTO』の影響

米津が漫画家を志していた背景には、漫画作品への強い愛着があった。なかでも『NARUTO -ナルト-』は、子供時代の思い出を語るうえで欠かせない作品だ。

2024年のテレビ出演では、作者の岸本斉史が漫画の巻末などで紹介していた漫画家の仕事や生活についてのエピソードを読んだことも、進路を考えるきっかけになったと説明している。

漫画家の仕事は睡眠時間を削って制作を続けるほど大変だと知り、自分には難しいと感じたという。長い睡眠時間を必要とする自身の生活スタイルも、その判断に関係していた。

興味深いのは、漫画家になる夢を手放した後も、絵を描く能力が失われなかったことだ。後にハチ名義で発表するVOCALOID楽曲のイラストや映像、そして『diorama』のジャケットなど、自分の作品を視覚的にも表現する能力として生かされていく。

小学5年生のFLASHアニメーションが音楽との出会い

音楽との接点について、米津は2015年の歌ネットのインタビューで、小学5年生頃に流行していたFLASHアニメーションを挙げている。

当時のインターネットには、イラストを使った短いアニメーションに音楽を組み合わせた動画が数多く投稿されていた。アニメーション好きだった米津は、それらの動画を通じて音楽にも興味を持つようになった。

ここには、後の活動につながる重要な要素がある。米津は単に楽曲を聴くだけでなく、映像と音楽が組み合わさることで生まれる表現に早くから触れていた。現在もミュージックビデオやアートワークを自ら手がける創作姿勢は、この時期の経験とも重なっている。

【米津玄師の中学・高校時代】バンド活動とオリジナル曲制作

中学生で音楽に目覚め、BUMP OF CHICKENなどに影響を受ける

米津玄師が音楽を本格的に聴き始めたのは中学生の頃だった。

当時、影響を受けたアーティストとして本人が挙げているのが、BUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU GENERATION、スピッツなどのバンドである。

特に注目したいのは、メロディーだけではなく歌詞にも関心を持ち始めたことだ。言葉の選び方や歌詞に込められた感情に惹かれた経験は、後に作詞家としての個性を形成する重要な要素になったと考えられる。

中学1〜2年頃から作曲を始め、友人とバンドを結成

米津は中学生の頃、同じ部活動の友人たちとバンドを組んでいた。

2015年の歌ネットのインタビューでは、バンドを組んだ理由について、第一にオリジナル曲を作りたかったからだと説明している。

「自分は第一に曲が作りたい、オリジナル曲がやりたい」

興味深いのは、バンド活動を始めたばかりの段階から、既存曲のコピーだけではなく自作曲を演奏していたことだ。友人たちは戸惑ったかもしれないと本人も振り返っているが、当時から自分の音楽を作ることへの意欲が強かった。

2024年9月のテレビ朝日系「EIGHT-JAM」でも、中学時代のバンド活動について改めて語っている。理想はバンドだったものの、長く続けるうちに共同作業が自分には向いていないと感じるようになったという。

高校時代もバンドは継続。年間のライブは約2回

中学卒業後も、友人たちとのバンドは高校時代まで形として残っていた。

ただし、活動頻度はそれほど高くなかった。本人によれば、ライブは年に2回程度で、普段は練習という名目で集まって遊ぶことも多かったという。

一方で、個人での楽曲制作は着実に進んでいた。2015年のインタビューでは、高校3年間でニコニコ動画に投稿した楽曲が約20曲、未発表曲も含めると約100曲に及んだと語っている。

この数字から分かるのは、表に出ていた作品だけが当時の創作活動のすべてではなかったということだ。公開されなかった曲も含め、試行錯誤を重ねながら自分の音楽を作り続けていた。

バンドから一人で完結する音楽制作へ

バンド活動を通して得た経験は、後の制作スタイルを考えるうえでも重要だ。

米津は2024年の「EIGHT-JAM」で、人と共同作業をすることが苦手だったと振り返り、ニコニコ動画で一人で作った音楽を発表する方法が自分に合っていたと説明している。

これはバンド活動を否定したという意味ではない。バンドという形式を経験したからこそ、自分が最も力を発揮できる制作環境を見つけたと捉えられる。

作詞、作曲、編曲、プログラミング、演奏、歌唱、映像、イラストまで自ら手がける現在のスタイルには、こうした若い頃の試行錯誤がつながっている。

【ハチ名義のボカロP時代】2009年から始まったネット音楽の快進撃

なぜ「米津玄師」ではなく「ハチ」だったのか

米津玄師の昔を知るうえで、絶対に外せないのが「ハチ」という名義である。

2009年、米津はニコニコ動画に「ハチ」名義でオリジナル楽曲を投稿し始めた。公式プロフィールでも、ハチは米津玄師の別名義として紹介されている。

2015年の歌ネットのインタビューでは、ネット上では本名を使わずハンドルネームで活動することが一般的だったため、別名義を付けたと説明している。

つまり、ハチと米津玄師は別人ではない。創作活動の場所や表現方法に合わせて使い分けられていた、同一人物の二つの名義である。

初投稿は2009年5月。「お姫様は電子音で眠る」

ハチとしての初投稿作品は、2009年5月20日に公開された「お姫様は電子音で眠る」とされている。

音楽メディアのぴあやReal Soundも、この作品をハチ名義の活動開始を示す作品として紹介している。

初期の作品から、物語性のある歌詞や独自の映像表現が見られた。楽曲だけではなく、イラストや動画も自ら制作するスタイルは、当時のボカロPの中でも印象的な個性だった。

「マトリョシカ」と「パンダヒーロー」で人気を確立

ハチの名前を広く知らしめた代表作が「マトリョシカ」と「パンダヒーロー」である。

「マトリョシカ」は2010年8月19日に発表されたVOCALOID楽曲。初音ミクとGUMIを起用し、疾走感のあるサウンドや印象的な映像、独特の歌詞世界によって大きな人気を獲得した。

2017年12月15日には、ニコニコ動画で再生数1000万回を突破。米津の公式サイトも、この記録を「神話入り」として紹介している。

一方の「パンダヒーロー」も、ハチを代表する作品として知られている。独特のリズムや言葉遊び、強い印象を残すビジュアルなど、ハチならではの創作性が詰まった一曲だ。

両作品に共通するのは、単純に耳に残るメロディーだけではなく、歌詞・音・イラスト・動画が一体となって独自の世界を作っている点である。

初音ミクとの出会いが制作スタイルを変えた

ハチがVOCALOIDを使用するようになった背景についても、本人が詳しく語っている。

2015年の歌ネットのインタビューによると、米津は機械が歌うソフトとしてVOCALOIDを知り、デモ音源を聴いて人間の声に近い自然な歌声に驚いたという。

加えて、初音ミクのソフトが比較的手に取りやすい価格だったことや、ニコニコ動画に楽曲を投稿して評価し合うコミュニティーが形成されていたことも、使用を決めた理由だった。

本人にとってVOCALOIDは、単に歌声を代替するソフトではなかった。一人で作った音楽を、より多くの人に届けるための手段だったのである。

その意味で、初音ミクとの出会いは、米津玄師の音楽人生における大きな転換点だった。

【米津玄師の経歴年表】ハチから『diorama』までの重要な転換点

米津玄師の若い頃から現在までを整理すると、子供時代の絵、中学時代のバンド、ハチ名義のVOCALOID制作、そして自ら歌うソロアーティストへの転換という流れが見えてくる。

以下は、公式プロフィールや本人インタビュー、作品の発売記録をもとに整理した主要な出来事である。

時期 年齢・年代 主な出来事 創作活動における意味
1991年3月10日 0歳 徳島県で生まれる 米津玄師の原点
幼稚園〜小学生 幼少期 絵を描き、漫画家に憧れる イラスト・映像表現の基礎
小学5年生頃 10〜11歳頃 FLASHアニメーションを通じて音楽に興味を持つ 映像と音楽の融合に触れる
中学生 10代前半 バンドを結成し、オリジナル曲を制作 作曲活動の本格化
高校時代 10代後半 バンドを継続しながら楽曲制作。ハチ名義での活動へ ネット発信と個人制作の確立
2009年5月 18歳 「お姫様は電子音で眠る」を投稿 ハチ名義の活動開始
2010年 19歳 「マトリョシカ」などを発表。アルバム『花束と水葬』『OFFICIAL ORANGE』をリリース ボカロPとして知名度を獲得
2011年 20歳 「パンダヒーロー」などの作品が広く支持される ハチの代表曲が定着
2012年5月16日 21歳 米津玄師名義の1stアルバム『diorama』を発売 自ら歌うアーティストとして活動を展開
2013年 22歳 「サンタマリア」などを発表。「ドーナツホール」もハチ名義で公開 生音を取り入れた制作へ
2014年 23歳 『YANKEE』を発売し、初ライブを開催 リスナーと直接向き合う活動へ
2017年 26歳 「砂の惑星 feat.初音ミク」をハチ名義で発表 ボカロシーンとの再接続
2024年 33歳 『LOST CORNER』発売。「ドーナツホール2024」を公開 ハチ名義の創作も継続
2025〜2026年 34〜35歳 「IRIS OUT」「JANE DOE」「1991」「烏」「夜鷹」などを発表 国内外で活動の幅を拡大

2012年5月16日、『diorama』で米津玄師としての活動を展開

ハチとして人気を確立した米津が、次の段階として発表したのが1stアルバム『diorama』だった。

2012年5月16日に発売されたこのアルバムは、本人がボーカルを担当した作品であり、ハチ名義のVOCALOID楽曲とは異なるアプローチを打ち出した。

公式プロフィールによると、収録曲の作詞・作曲・アレンジ・プログラミング・歌唱・演奏・ミックスに加え、動画やアートワークまで本人が手がけている。

収録曲には「街」「ゴーゴー幽霊船」「駄菓子屋商売」「vivi」「恋と病熱」など全14曲が並ぶ。

『diorama』というタイトルが示すように、作品全体には一つの世界を構築するような統一感がある。楽曲単位の魅力だけでなく、アルバム全体を一つの表現として完成させようとする姿勢が特徴だ。

ハチ時代に培った音楽制作や映像制作の技術が、米津玄師名義の作品にも引き継がれていることが分かる。

【米津玄師の昔と現在を比較】見た目だけでは分からない創作の進化

昔は匿名性の高いネットクリエイター、現在は世界に発信するアーティスト

昔と現在の米津玄師を比較すると、最も大きな違いは活動の規模と表現の届け方にある。

ハチ時代は、ニコニコ動画を中心に作品を公開するネットクリエイターだった。自分の顔や本名を前面に出すよりも、楽曲・イラスト・映像によって世界観を伝えることに重点が置かれていた。

一方、米津玄師名義では自ら歌い、ライブを行い、映画やテレビドラマ、アニメなどの主題歌も手がけるようになった。

2015年の歌ネットのインタビューでは、自分自身が表に出ることへの抵抗感についても語っている。それでも、自分が歌い手として活動するなら顔を出す必要があると考えたという。

ここには、匿名のクリエイターから、作品を生み出す本人も含めて表現するアーティストへの変化が表れている。

昔の写真と現在の写真を比較するときの注意点

「米津玄師 昔の写真」と検索すると、学生時代とされる写真や過去の宣材写真、雑誌・テレビ出演時の画像など、さまざまな種類の画像が見つかる。

ただし、写真を比較するときには、撮影時期と掲載元を区別することが大切だ。公式アーティスト写真と、学生時代の写真として紹介されている画像では、情報の確かさや撮影時期の裏付けが異なる。

公式プロフィールは生年月日や出身地、作品歴を中心に構成されており、幼少期から現在までの写真を年代別に解説する資料とは性質が異なる。

また、髪型やファッション、撮影時の照明、表情によって写真の印象は大きく変わる。昔と現在の外見だけから、性格や人生経験まで判断することはできない。

写真を探す場合は、公式サイトのGALLERYや本人が関わった作品のアートワーク、信頼できる音楽メディアのインタビュー写真など、掲載元が明確な資料を優先したい。

変わったのは表現方法、変わらないのは自分で作る姿勢

昔と現在を比較するうえで、見逃せないのが制作への向き合い方である。

ハチ時代から米津は、楽曲だけでなくイラストや映像も自分で制作していた。『diorama』でも複数の制作工程を一人で担っている。

現在は多くのアーティストや映像制作者、企業、映画・アニメ作品との共同制作も行っているが、自分の世界観を楽曲に落とし込む姿勢は一貫している。

つまり、昔と現在の違いは創作の方向性が完全に変わったというよりも、個人制作で培った表現力を、より大きな規模の作品やコラボレーションへ発展させてきたことにある。

【2026年最新プロフィール】35歳になった米津玄師の現在

基本プロフィール

2026年10月30日時点の米津玄師の基本プロフィールは次のとおり。

  • 名前:米津玄師(よねづ・けんし)
  • 生年月日:1991年3月10日
  • 年齢:35歳
  • 出身地:徳島県
  • 別名義:ハチ
  • 活動分野:シンガーソングライター、作詞家、作曲家、イラストレーター
  • 公式サイト:REISSUE RECORDS

2026年の活動を見ると、米津玄師はハチ時代のネット発信から始まったキャリアを、国内外に広がる音楽活動へと発展させている。

2025年は「IRIS OUT」「JANE DOE」「1991」が話題に

2025年には、TVアニメ『メダリスト』のオープニング主題歌「BOW AND ARROW」、アニメ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』の主題歌「Plazma」などを発表した。

さらに劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の主題歌「IRIS OUT」と、宇多田ヒカルとの共演によるエンディングテーマ「JANE DOE」を制作。10月には映画『秒速5センチメートル』の主題歌「1991」も発表した。

公式プロフィールによれば、2025年の「米津玄師 2025 TOUR / JUNK」は国内ドーム公演に加え、アジア・ヨーロッパ・アメリカを巡るワールドツアーとなり、44万人を動員した。

2026年は「烏」「夜鷹」を発表

2026年には、NHKサッカーテーマとして楽曲「烏」を発表。加えて、映画『キングダム 魂の決戦』の主題歌として「夜鷹」を書き下ろした。

「夜鷹」については、Billboard JAPANのインタビューで本人が制作背景を詳しく語っている。作品の世界観をどう音楽に落とし込むかという考え方には、漫画や物語に親しんできた少年時代からの創作姿勢も重なる。

2026年11月6日から12月17日には「米津玄師 2026 TOUR / GHOST」、さらに12月26日から2027年2月28日には「KENSHI YONEZU 2026-2027 WORLD TOUR / GHOST」が予定されている。活動の舞台は国内だけにとどまらない。

徳島の少年時代に絵を描いていた米津が、今では世界各地の観客に自分の音楽を届けている。その歩みは、ハチ時代から続く個人の創作活動が大きく発展した姿でもある。

【プロの結論】米津玄師の昔を知ると現在の音楽がもっと深く聴こえる

米津玄師の過去を振り返ると、現在の音楽的な個性は突然生まれたものではないことが分かる。

幼少期の漫画や絵への関心、小学5年生頃のFLASHアニメーションとの出会い、中学生でのバンド活動、高校時代の膨大な楽曲制作。そして2009年からのハチ名義での活動。これらは別々のエピソードではなく、一人のクリエイターが自分の表現方法を探し続けた過程だった。

特に重要なのは、ハチ時代と米津玄師名義を対立するものとして捉えないことだ。

ハチとしての成功を捨てたという単純な話ではない。VOCALOIDを使った音楽制作で培った技術や経験を土台に、自分自身の声で表現する新しい活動へ進んだのである。

2015年の本人インタビューでも、ニコニコ動画で活動した2〜3年間が自身の音楽活動の礎になっているという趣旨を語っている。

米津玄師の過去を深く理解したい人には、次の3つの視点がおすすめだ。

  • 人物の原点を知りたい人:幼少期の絵や漫画への関心、中学時代のバンド活動に注目する。
  • 音楽の進化を知りたい人:「マトリョシカ」「パンダヒーロー」から『diorama』へと聴き進める。
  • 現在の創作を理解したい人:ハチ時代の映像・イラスト表現と、近年の映像作品やコラボ楽曲を比較する。

昔の写真だけを追うよりも、当時のインタビューや作品を一緒に確認することで、米津玄師というアーティストの変化をより立体的に理解できる。

【米津玄師の昔に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:米津玄師は昔、どんな子供だった?
A1:本人のインタビューによると、幼少期は引っ込み思案で、絵を描くことが好きな少年だった。漫画家に憧れ、『ドラえもん』『NARUTO』『ONE PIECE』などを好んでいた。

Q2:米津玄師は中学時代にバンドを組んでいた?
A2:組んでいた。友人とバンドを結成し、オリジナル曲を制作していた。高校進学後もバンドは続き、ライブは年2回程度だったと本人が振り返っている。

Q3:米津玄師がハチ名義で活動を始めたのはいつ?
A3:2009年。5月20日に「お姫様は電子音で眠る」を投稿したことが、ハチ名義の活動開始として知られている。

Q4:ハチと米津玄師は別人?
A4:別人ではない。同一人物であり、ハチは米津玄師がVOCALOID楽曲などを発表する際に使用してきた別名義である。

Q5:ハチ時代の代表曲は何?
A5:「マトリョシカ」「パンダヒーロー」「結ンデ開イテ羅刹ト骸」「ドーナツホール」などが代表作。特に「マトリョシカ」は2017年にニコニコ動画で1000万再生を突破した。

Q6:米津玄師名義で最初に発表したアルバムは?
A6:2012年5月16日発売の1stアルバム『diorama』。本人がボーカルを担当し、作詞・作曲・編曲・演奏・ミックスやアートワークなども手がけた作品である。

Q7:2026年現在、米津玄師は何歳?
A7:1991年3月10日生まれのため、2026年10月30日時点で35歳。2026年は「烏」「夜鷹」などを発表し、11月からは「GHOST」ツアーが予定されている。

まとめ:徳島の少年時代からハチ、そして世界へ

米津玄師の昔をたどると、幼少期に漫画家を夢見て絵を描いていた少年が、中学生で音楽と出会い、友人とのバンド活動を経て、一人で楽曲を作るスタイルを確立していったことが分かる。

2009年のハチ名義での活動開始、「マトリョシカ」「パンダヒーロー」のヒット、そして2012年の『diorama』。この一連の出来事が、現在の米津玄師につながる大きな転換点だった。

2026年、35歳となった米津玄師は「烏」「夜鷹」など新たな作品を発表し、国内外で活動を続けている。

昔と現在を比べて見えてくるのは、外見や活動規模の変化だけではない。絵、音楽、映像を組み合わせ、自分の内側にある世界を作品として表現する姿勢は、少年時代からハチ時代、そして現在まで一貫している。

米津玄師の音楽をさらに深く楽しむなら、ぜひ2009年のハチ名義の作品と2012年の『diorama』を聴き比べてほしい。そこには、現在の作品へと続く創作の原点が鮮明に残っている。

主な参照資料: 米津玄師公式サイト「REISSUE RECORDS」プロフィール・ディスコグラフィー、歌ネット2015年本人インタビュー、Billboard JAPAN 2026年インタビュー、日刊スポーツ2024年報道、音楽メディア「ぴあ」のハチ活動開始10周年特集。

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天音 栞

アイドルグループとアーティストの動向を追うライター。公式サイト・公式SNS・音楽配信のクレジットを照合し、卒業や加入などの発表は必ず一次情報の日付とともに記録します。

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