1998年フランスワールドカップで日本代表の一員として戦い、日本のW杯初出場を支えた元ストライカー、呂比須ワグナー。ブラジル出身ながら日本に帰化し、Jリーグでも数々のクラブで活躍した彼は、現役引退後も日本やブラジル、インドネシアで指導者としてキャリアを重ねてきた。2026年11月現在、57歳となった呂比須ワグナーは、ブラジルのルヴェルデンセを率いた後、監督職を離れている。
2026年10月1日、ルヴェルデンセは呂比須ワグナーとの契約関係を双方合意で終了したと発表した。チームは2026年のマットグロッソ州選手権で準優勝し、ブラジル全国選手権セリエDでもベスト16に進出。退任時の実績は決して見劣りするものではない。なぜこのタイミングでチームを離れたのか、次の所属先は決まっているのか。現役時代の日本代表での活躍や1997年の帰化理由、指導者としての歩みとともに整理する。
【2026年最新】呂比須ワグナーの現在は?ルヴェルデンセを10月に退任

2026年11月3日現在、呂比須ワグナーはブラジルのルヴェルデンセを退任している。次の監督就任先については、退任後の公表情報で確認できる正式発表はない。
今回の退任で注目したいのは、チームの成績が低迷した末の解任という単純な構図ではないことだ。
2026年10月1日に双方合意で退任
ブラジルのスポーツメディア「ge」が2026年10月1日に報じたところによると、ルヴェルデンセは同日、呂比須ワグナーがプロチームの指揮官を離れると発表した。
双方合意による退任で、57歳の呂比須ワグナーにとって約2シーズンにわたる同クラブでの仕事に一区切りがついた。
クラブ側は、彼がピッチ上の結果だけでなく、チームの組織づくりや施設面の改善にも貢献したと評価している。
また、マットグロッソ州のサッカー界では、比較的長期間にわたって同じチームを率いた監督の一人としても紹介された。
一方、退任理由については注意が必要だ。一部のブラジル現地メディアは、次シーズンに向けたクラブの経費削減や財政事情が背景にあったと報じている。ただし、geが伝えたクラブ発表の中心は双方合意による退任であり、公式説明で具体的な経営上の理由が詳述されたわけではない。
したがって、成績不振による解任と断定するのも、財政問題だけが原因だったと断定するのも正確ではない。
ルヴェルデンセで残した2026年の実績
呂比須ワグナーが率いた2026年のルヴェルデンセは、州選手権と全国大会の両方で一定の成果を残した。
特に注目されるのが、マットグロッソ州選手権での準優勝だ。
同クラブが州選手権の決勝に進出したのは10年ぶり。決勝ではミスト(Mixto)と対戦し、最終的にPK戦で敗れたものの、久しぶりのタイトル争いを実現させた。
また、ブラジル全国選手権セリエDではベスト16に進出した。
ここでいうセリエDはイタリアのセリエDではなく、ブラジル全国選手権の4部に相当する大会である。ベスト16はブラジルでいう「オイターヴァス・ジ・フィナウ(oitavas de final)」に当たり、決勝トーナメントのラウンド16を意味する。
2026年の主要大会での指揮成績は次のとおりだ。
| 大会 | 試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 |
|---|---|---|---|---|
| マットグロッソ州選手権 | 13 | 6 | 4 | 3 |
| ブラジル・セリエD | 15 | 6 | 6 | 3 |
| 合計 | 28 | 12 | 10 | 6 |
州選手権では9得点5失点、セリエDでは16得点12失点を記録している。
この数字から見えるのは、特定の大会だけに成果が偏ったわけではなく、異なる競技環境で安定した勝ち点を積み重ねたことだ。
州選手権では決勝進出、全国大会では16強という結果を残し、クラブは2027年のコパ・ド・ブラジルとセリエDへの出場権も確保した。
2025年からの2シーズンを振り返る
呂比須ワグナーがルヴェルデンセの監督に就任したのは2025年2月11日。クラブ公式発表では、ブラジル国内外での豊富な指導経験と、日本サッカー界で築いた実績が紹介された。
2025年8月15日には契約更新も正式発表されている。
2025年の指揮成績は18試合で8勝5分け5敗。セリエDでは16試合を戦い、7勝5分け4敗で第2フェーズに進出した。
2026年には州選手権の決勝進出とセリエDのベスト16を達成。2シーズン合計では46試合、22勝10分け14敗という成績だった。
単に短期間で結果を求められる監督ではなく、クラブの組織づくりにも関わっていた点は見逃せない。
【経歴・プロフィール】呂比須ワグナーはどんな人物?日本とブラジルをつないだサッカー人生
呂比須ワグナーは1969年1月29日生まれ。ブラジル・サンパウロ州フランカ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者である。
ブラジルでプロ選手としてキャリアを始めた後、10代で日本に渡り、日本のサッカー界で長く活躍した。
日本語を身につけ、日本の文化や生活に深くなじんだことも、後の日本国籍取得につながる重要な背景だった。
呂比須ワグナーの基本プロフィール
- 名前:呂比須ワグナー
- ブラジル名:Wagner Augusto Lopes
- 生年月日:1969年1月29日
- 年齢:57歳(2026年11月3日現在)
- 出身地:ブラジル・サンパウロ州フランカ
- ポジション:フォワード
- 日本国籍取得:1997年9月
- 主な選手所属クラブ:サンパウロFC、日産自動車、日立/柏レイソル、本田技研、ベルマーレ平塚、名古屋グランパスエイト、FC東京、アビスパ福岡
- 代表歴:日本代表、1998年フランスW杯出場
- 主な指導歴:ガンバ大阪、アルビレックス新潟、PSSスレマン、ルヴェルデンセなど
17歳でプロ契約、日本で15年以上プレー
呂比須ワグナーは17歳でブラジルの名門サンパウロFCとプロ契約を結んだ。
その後、1987年に日本のサッカー界へ移籍。日産自動車サッカー部に加入した。当時の日産自動車は、後の横浜F・マリノスにつながる強豪チームである。
日本でのキャリアは、当初の想定を超えて長く続いた。
日立製作所、本田技研工業などでプレーした後、1997年にベルマーレ平塚へ移籍。Jリーグでも得点力を発揮し、名古屋グランパスエイト、FC東京、アビスパ福岡でもプレーした。
ブラジル出身のストライカーでありながら、日本のサッカー環境に適応し、長期にわたって第一線でプレーしたことが彼の大きな特徴だ。
年代別キャリアと重要な転換点
| 年・時期 | 出来事 | 意義・実績 |
|---|---|---|
| 1986年ごろ | サンパウロFCでプロ契約 | 17歳でプロの道へ |
| 1987年 | 日産自動車に加入 | 日本でのキャリアが始まる |
| 1990年 | 日立製作所へ移籍 | 日本国内で経験を積む |
| 1995~1996年 | 本田技研工業でプレー | JFLで2年連続得点王 |
| 1997年9月 | 日本国籍を取得 | 日本代表入りへの道が開ける |
| 1997年9月28日 | 韓国戦で日本代表デビュー | 帰化後初の代表出場 |
| 1998年 | フランスW杯に出場 | 日本のW杯初出場メンバー |
| 1999~2002年 | 名古屋、FC東京、福岡でプレー | 日本での選手生活を継続 |
| 2002年 | 現役引退 | 指導者へ転身 |
| 2012年ごろ | ガンバ大阪のヘッドコーチ | 指導者として日本で活動 |
| 2017年5月 | アルビレックス新潟監督就任 | J1クラブの監督を務める |
| 2024年 | PSSスレマンで指揮・育成に従事 | インドネシアで活動 |
| 2025年2月 | ルヴェルデンセ監督就任 | ブラジルで再び指揮 |
| 2026年10月1日 | ルヴェルデンセ退任 | 約2シーズンの指導を終了 |
この経歴で注目したいのは、日本での選手経験が一時的な海外移籍では終わらなかったことだ。
選手として日本に定着し、日本代表としてW杯を経験。その後は日本のクラブを指導し、さらに海外で指導者として活動するという、複数の立場から日本サッカーに関わってきた。
【1997年の帰化理由】なぜブラジル出身の呂比須ワグナーは日本国籍を取得したのか
呂比須ワグナーの経歴を語るうえで欠かせないのが、1997年9月の日本国籍取得である。
日本代表として1998年フランスW杯に出場したことから、「日本代表になるために帰化したのではないか」と考える人もいるかもしれない。
しかし、本人の過去のインタビューを読むと、帰化の背景はもっと複合的だったことが分かる。
日本への愛着と生活基盤が大きな理由
2024年11月12日付のスポーツニッポンのインタビューで、呂比須ワグナーは自身の帰化について次のように説明している。
僕は日本を愛していて、ずっと住みたかった。日本語もしゃべれたし、文化も理解した。だから日本人になりました。
この発言から読み取れるのは、日本で生活することへの強い親近感だ。
1987年に来日してから日本で長く生活し、言葉や文化に親しんできた。単にサッカー選手としてプレーする場所というだけでなく、人生の基盤を置く場所として日本を考えていたことがうかがえる。
外国人選手枠の問題も関係していた
もう一つの理由として、当時のプロサッカー界における外国人選手枠の問題が挙げられる。
過去のインタビューでは、帰化によって所属クラブの外国人選手枠を一つ空けられることも、実務的なメリットとして説明している。
当時のJリーグでは外国人選手の登録・出場に制限があり、日本国籍を取得すればクラブが外国人枠をより有効に活用できる。
つまり、帰化には次のような複数の側面があった。
- 日本の文化や生活に強い愛着があった。
- 将来的にも日本で暮らしたいという思いがあった。
- 日本語を理解し、日本社会に適応していた。
- 所属クラブの外国人選手枠を空けられるという競技上の利点があった。
日本代表入りだけを目的とした帰化と理解するのは、本人の説明とは異なる。
帰化から16日後に日本代表デビュー
1997年9月12日に日本国籍を取得した呂比須ワグナーは、同月28日の韓国戦で日本代表デビューを果たした。
帰化からわずか16日後のことだった。
この時期の日本代表は、1998年フランスW杯出場を懸けたアジア最終予選の真っただ中。韓国、カザフスタン、ウズベキスタンなどとの厳しい戦いが続いていた。
呂比須ワグナーは代表デビュー後、攻撃陣の一角として存在感を発揮。アジア最終予選では3試合連続ゴールを記録するなど、日本のW杯初出場に貢献した。
帰化と代表入りの時期が近接しているため混同されやすいが、本人の説明では、帰化の動機は日本で暮らし続けたいという思いとクラブでの実務的な事情にあった。
【日本代表・1998年フランスW杯】呂比須ワグナーが残した20試合5得点の記録
呂比須ワグナーの名前が日本サッカー史に刻まれている最大の理由は、1998年フランスW杯への出場だ。
日本が初めてワールドカップ本大会に出場した歴史的な大会で、彼は背番号12を着用して全3試合に出場した。
フランスW杯ではスーパーサブとして活躍
1998年のフランス大会で、日本はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同じグループHに入った。
結果は3戦全敗。グループリーグ敗退となったものの、日本サッカーが世界の舞台に立った歴史的な大会だった。
呂比須ワグナーは3試合すべてに出場したが、主に途中出場で攻撃に変化を与える役割を担った。
特に印象的なのが、6月26日に行われたジャマイカ戦である。
日本は0対2とリードを許した後、74分に中山雅史が日本代表のW杯本大会初ゴールを記録した。
この得点をアシストしたのが呂比須ワグナーだった。
日本は最終的に1対2で敗れたものの、W杯初ゴールという歴史的な瞬間に彼が関わったことは、今も語り継がれる実績の一つである。
日本サッカー協会の1998年大会記録にも、ジャマイカ戦で59分に城彰二と交代して出場したことが記載されている。
日本代表通算20試合5得点
日本代表での通算成績は、国際Aマッチ20試合5得点。
出場記録を年度別に見ると、次のようになる。
- 1997年:6試合3得点
- 1998年:7試合0得点
- 1999年:7試合2得点
- 通算:20試合5得点
1997年の最終予選で3得点を挙げたことが、W杯初出場を目指す日本にとって大きな意味を持った。
また、1998年の本大会では得点こそなかったものの、全3試合に出場。ジャマイカ戦では中山雅史の得点をアシストしている。
呂比須ワグナーと1998年日本代表の関係者
当時の日本代表には、後の日本サッカー界を代表する選手たちがそろっていた。
- 岡田武史:1998年フランスW杯の日本代表監督
- 中山雅史:ジャマイカ戦で日本のW杯初ゴールを記録
- 城彰二:フランス大会でFWの主力として起用
- 中田英寿:当時の攻撃を支えた中心選手
- 川口能活:日本代表のGKとして本大会に出場
呂比須ワグナーは、この世代の選手たちとともに日本サッカーの新しい歴史を築いた一人だった。
【Jリーグ成績と現役時代】69得点を記録したストライカーの実力
日本代表での活躍だけでなく、クラブレベルでも呂比須ワグナーは優れた得点能力を発揮した。
特に注目されるのが、J1通算69得点という記録である。
アルビレックス新潟が2017年5月11日に公表した監督就任資料には、選手時代のJリーグ通算成績が記載されている。
J1で125試合69得点
Jリーグでの成績は以下のとおり。
- J1:125試合69得点
- J2:19試合6得点
- 合計:144試合75得点
検索時に見かける「Jリーグ69得点」という数字は、厳密にはJ1での通算得点を指す。
J2での6得点を加えると、Jリーグ全体では75得点となる。この区別は押さえておきたい。
日本国内で所属した主なクラブ
呂比須ワグナーがプレーした日本のクラブには、次のようなチームがある。
日産自動車
1987年に加入したクラブで、後の横浜F・マリノスにつながる名門チーム。当時の日本サッカー界で実績を積む出発点となった。
日立製作所・柏レイソル
1990年に移籍。日本国内でのキャリアをさらに発展させた。
本田技研工業
1995年、1996年に所属。JFLで2年連続得点王となり、ストライカーとしての能力を示した。
ベルマーレ平塚
1997年に加入。日本国籍取得後、日本代表としても活躍する時期を迎えた。
名古屋グランパスエイト
1999年から2000年にかけて所属。Jリーグでのキャリアを継続した。
FC東京・アビスパ福岡
キャリア終盤に所属したクラブで、2002年まで選手として活動した後、現役を退いた。
得点力だけではない日本サッカーへの適応力
呂比須ワグナーの特徴は、単純なゴール数だけでは説明できない。
日本のサッカー環境で長くプレーし、Jリーグ創設前後の変化も経験した選手である。
ブラジルで培った技術を日本の戦術やチーム文化に適応させ、外国籍選手としてではなく、日本代表の一員として世界大会に出場した。
こうした経験は、後に指導者として日本と海外の両方で活動する際にも、大きな財産になったと考えられる。
【監督としての経歴】アルビレックス新潟からPSSスレマン、そしてブラジルへ
2002年に現役を引退した呂比須ワグナーは、指導者の道へ進んだ。
ブラジル国内の複数クラブで監督やコーチを経験し、ガンバ大阪のヘッドコーチも務めた。
その後、2017年にはアルビレックス新潟の監督に就任。2024年にはインドネシアのPSSスレマン、2025年にはブラジルのルヴェルデンセへと活動の場を移した。
2017年アルビレックス新潟監督時代
2017年5月11日、アルビレックス新潟は呂比須ワグナーの監督就任内定を発表した。
当時の新潟はJ1で苦戦しており、シーズン途中の監督交代によるチーム再建が求められていた。
呂比須ワグナーには、選手時代のJリーグ経験とブラジルでの指導経験を生かした立て直しが期待された。
しかし、シーズン終盤まで状況を好転させることはできなかった。
Jリーグ公式発表によると、呂比須監督の指揮下でのJ1成績は4勝5分け12敗。チームをJ1残留に導くことはできず、2017年11月に契約満了による退任が発表された。
この結果は指導者としてのキャリアにおける厳しい経験となった。
ただし、その後もブラジル国内で監督を続け、ヴィトーリア、ヴィラ・ノヴァ、アトレチコ・ゴイアニエンセ、パラナなど複数クラブで指揮を執っている。
2024年はインドネシアのPSSスレマンへ
2024年6月、呂比須ワグナーはインドネシア1部リーグのPSSスレマンの監督に就任した。
クラブ側は、1998年フランスW杯に日本代表として出場した経験や、指導者としての実績を評価していた。
しかし、2024-25シーズン序盤の7試合では1勝2分け4敗と苦戦。10月には監督職から離れることになった。
ここで注目したいのは、その後の役割だ。
PSSスレマンは、呂比須ワグナーを単純にクラブから排除したわけではなかった。
インドネシアの現地報道では、監督職から離れた後もクラブの育成部門やアカデミーの発展を支援する役割を与えられたと伝えられている。
2024年11月12日付のスポーツニッポンは、彼をPSSスレマンのテクニカルダイレクター(TD)として紹介。下部組織の指導に携わっていると報じた。
つまり、トップチームの監督から育成・技術面の仕事へと役割を移した時期があったのだ。
この経験は、選手育成やクラブ組織づくりに関わる指導者としての側面を示している。
2025年からルヴェルデンセで再び監督に
2025年2月11日、ルヴェルデンセはワグナー・アウグスト・ロペスの監督就任を発表した。
クラブ公式発表では、日本の横浜マリノス、鹿島レイソル、名古屋グランパスなどで活躍した経歴や、日本代表として1998年W杯に出場した実績が紹介された。
2025年8月には契約更新が正式に発表され、クラブは継続的なチーム強化への期待を示した。
その後、2026年にはマットグロッソ州選手権準優勝とセリエDベスト16を達成。
日本、インドネシア、ブラジルと異なるサッカー環境を経験してきた呂比須ワグナーにとって、ルヴェルデンセでの2シーズンは指導者としての成果を改めて示す期間となった。
【プロの結論】呂比須ワグナーの評価は?選手時代と指導者時代を分けて見るべき理由
呂比須ワグナーを評価する際には、選手時代と監督時代を分けて考える必要がある。
選手としての実績は明確だ。J1で69得点、日本代表として20試合5得点、そして1998年フランスW杯出場。日本サッカーが世界へ踏み出した時期を支えた選手の一人である。
一方、監督としては、2017年のアルビレックス新潟でJ1残留を果たせなかった経験もある。2024年のPSSスレマンでも序盤の成績が振るわず、監督職を離れた。
しかし、2026年のルヴェルデンセでは州選手権準優勝と全国大会16強を実現している。
この違いをどう理解すればよいのか。
監督としての評価は大会成績だけでは決まらない
サッカーの監督評価では、勝敗だけでなく、クラブの予算、選手層、競技レベル、長期的な育成計画なども重要な判断材料となる。
ルヴェルデンセのケースでは、クラブ自身がチームの組織や施設面の改善に対する呂比須ワグナーの貢献を評価していた。
加えて、2026年の州選手権では10年ぶりの決勝進出を果たし、翌年の大会出場権も確保した。
このような結果は、単なる勝敗表だけでは見えにくい監督としての仕事を考える材料になる。
呂比須ワグナーに関する情報を見極める3つのポイント
今後、彼の名前を検索する際には、次の3点を区別すると情報を正しく理解しやすい。
1. 現在の所属と過去の所属を区別する。 PSSスレマンのテクニカルダイレクターという情報は2024年のもの。2026年11月現在の所属を意味するものではない。
2. Jリーグ69得点と通算75得点を区別する。 69得点はJ1のみ。J2の6得点を含めると144試合75得点となる。
3. 選手としての代表実績と監督としての実績を混同しない。 1998年W杯出場は選手時代の功績であり、監督としての評価は別に判断する必要がある。
呂比須ワグナーのキャリアは、ブラジル出身の選手が日本で生活基盤を築き、日本国籍を取得して代表選手となり、さらに複数の国で指導者として活動してきた歩みそのものだ。
ルヴェルデンセでの退任は一つの区切りだが、2026年の成績を見る限り、指導者としての仕事に一定の成果を残したことは間違いない。
【よくある質問】呂比須ワグナーに関するFAQ
Q1:呂比須ワグナーは2026年現在、何をしている?
A1:2026年10月1日にブラジルのルヴェルデンセを退任した。11月3日現在、次の監督就任先や新たな所属先について公表された正式情報は確認できない。
Q2:呂比須ワグナーはなぜ日本に帰化した?
A2:日本への愛着や、日本で生活を続けたいという思いが大きな理由だった。本人は日本語や文化への理解、日本への愛情を帰化の理由として説明している。また、当時の外国人選手枠を空けられるというクラブ側の実務的な利点もあった。
Q3:呂比須ワグナーの日本代表での成績は?
A3:国際Aマッチ通算20試合5得点。1998年フランスW杯では全3試合に出場し、ジャマイカ戦で中山雅史が決めた日本のW杯初ゴールをアシストした。
Q4:呂比須ワグナーのJリーグ通算得点は?
A4:J1通算125試合69得点、J2通算19試合6得点。両方を合わせると144試合75得点となる。
Q5:呂比須ワグナーはアルビレックス新潟で監督をしていた?
A5:2017年5月に監督へ就任した。J1では4勝5分け12敗で、チームを残留に導くことはできず、同年11月に契約満了で退任した。
Q6:ルヴェルデンセでの2026年の成績は?
A6:マットグロッソ州選手権で準優勝、ブラジル全国選手権セリエDでベスト16。州選手権では10年ぶりの決勝進出を果たした。2026年10月1日に双方合意で退任している。
まとめ:呂比須ワグナーの次の挑戦にも注目
呂比須ワグナーは、1997年の日本国籍取得、1998年フランスW杯出場、J1通算69得点という選手時代の実績を持つ人物だ。
現役引退後は指導者として日本、ブラジル、インドネシアで活動し、2017年にはアルビレックス新潟、2024年にはPSSスレマン、2025年から2026年10月まではルヴェルデンセを率いた。
特に最後のルヴェルデンセでは、2026年の州選手権準優勝とセリエDベスト16という結果を残している。
2026年11月現在、次の所属先は公表されていない。 そのため、今後の動向を判断する際には、過去のPSSスレマンでの役職やルヴェルデンセでの監督歴と、退任後の新たな活動を区別することが大切だ。
日本代表としてW杯の歴史を経験し、複数の国でサッカーの指導に携わってきた呂比須ワグナー。57歳を迎えた今も、そのキャリアは日本サッカーと海外サッカーの接点を考えるうえで興味深い存在である。
主な参照資料: アルビレックス新潟公式発表(2017年5月・11月)、Jリーグ公式発表、Luverdense Esporte Clube公式発表(2025年2月・8月)、ブラジル「ge」(2026年10月1日)、スポーツニッポン(2024年11月12日)、日本サッカー協会の1998年フランスW杯記録、FOOTBALL ZONEの帰化に関するインタビュー。