黒柳徹子さんとパンダの関係は、単なる有名人と人気動物という枠には収まりません。その原点は幼少期にさかのぼります。叔父からアメリカ土産としてパンダのぬいぐるみを贈られたことをきっかけに、黒柳さんはパンダに関心を持ち、資料がほとんどない時代から自分で調べ続けてきました。現在は日本パンダ保護協会の名誉会長を務め、パンダの保護や生息環境の保全にも取り組んでいます。
1972年の日中国交正常化を記念したカンカン・ランランの来日から、シャンシャンの誕生、そして2026年1月のシャオシャオ・レイレイの中国返還まで、日本のパンダ史には黒柳さんの歩みと重なる出来事が数多くあります。なぜこれほどパンダを愛し続けるのか。その背景と活動、国内飼育がゼロになった現在の状況を整理します。
【パンダ愛の原点】黒柳徹子が幼少期に出会ったぬいぐるみと1967年の出来事

黒柳徹子さんがパンダに興味を持ったきっかけは、叔父から贈られた一体のぬいぐるみだった。叔父はアメリカから帰国した際、小学生だった黒柳さんにパンダのぬいぐるみをお土産として渡したという。
興味深いのは、最初からそれがパンダだと理解していたわけではないことだ。2023年にテレビ朝日系「徹子の部屋」で語ったエピソードによると、当初は普通のクマだと思っていたものの、白と黒の独特な姿を不思議に感じ、後になってパンダだと知ったことが調べ始めるきっかけになった。
日本パンダ保護協会の公式メッセージでも、幼少期からパンダを研究していたことを振り返っている。当時はパンダに関する資料がほとんどなく、知りたいと思っても十分な情報を得られなかった。それでも関心を持ち続け、自分なりに調べていたという。
戦時中も手放さなかった思い出のぬいぐるみ
2018年9月の日刊スポーツの報道では、黒柳さんが長年大切にしてきた最初のパンダのぬいぐるみが紹介された。黒柳さんによると、戦争中もリュックサックに入れて持ち歩き、避難する際にも一緒だったという。
加えて、ぬいぐるみには毎日の出来事を報告していたというエピソードも残っている。単なる装飾品や子どもの玩具ではなく、幼い頃から生活をともにした大切な存在だったことがうかがえる。
2025年1月放送の日本テレビ系「おしゃれクリップ」では、自宅にあるパンダのぬいぐるみが事務所スタッフの集計で316個に達していたことも明らかになった。ぬいぐるみ専用の部屋があり、最初の一体も現在まで保管しているという。316個は番組出演時の集計であり、2026年現在の最新個数を示すものではない。
本物のパンダとの出会いは1967年のロンドン動物園
ぬいぐるみとの出会いと、本物のパンダとの対面は別の出来事だ。黒柳さんが実際に生きたパンダを見たのは1967年。仕事を始めていた頃、ロンドン動物園を訪れた際だった。
そこで出会ったのが、ソ連から繁殖のために貸し出されていたオスのパンダ「アンアン」だった。黒柳さんは2025年の雑誌「anan」55周年記念インタビューで、この出会いを振り返っている。
帰国後、アンアンのかわいらしさや名前について友人たちに話したところ、そこにいた出版社関係者らの会話から、雑誌「anan」の名前が生まれるきっかけの一つになったという。パンダとの出会いが、後の日本のファッション・カルチャーを代表する雑誌の名称にもつながったエピソードだ。
黒柳さんのパンダ愛は、見た目のかわいらしさだけで終わらなかった。知らない動物について知りたいという好奇心が、観察や学習、さらには保護活動へと発展していったのである。
【1972年の歴史的転換点】カンカン・ランラン来日と黒柳徹子のパンダ普及活動
日本のパンダ史を語るうえで欠かせないのが、1972年10月28日のカンカンとランランの来日だ。1972年9月29日に日中国交正常化を記念する日中共同声明が調印され、その友好の象徴として中国から贈られた2頭が上野動物園に到着した。
オスのカンカンとメスのランランは、当時の日本では珍しいジャイアントパンダとして大きな話題を集めた。11月5日に一般公開が始まると、観覧を希望する人々が殺到。台東区の文化資料によると、観客の列は約2キロに及んだという。
黒柳徹子はパンダブームの前から魅力を伝えていた
黒柳さんはテレビの仕事を始めてから、日本ではまだ広く知られていなかったパンダの魅力を紹介していた。日本パンダ保護協会の名誉会長メッセージにも、1972年の来日以前からパンダを紹介していたことが記されている。
2021年のSmart FLASHのインタビューでは、女優の森光子さんとの交流についても語られた。まだパンダが一般的に知られていなかった時期、森さんはパンダに興味を示し、黒柳さんが上野動物園に連れて行ってカンカンを見せたという。
その後も森さんとの間では、当時見たパンダのかわいらしさが話題になっていた。黒柳さんはパンダの魅力を知る人を増やす役割も担っていたのだ。
カンカンは歴代の中でも特別な存在
上野動物園で飼育された数々のパンダの中でも、黒柳さんが特にお気に入りとして挙げているのがカンカンだ。
東京動物園協会のジャイアントパンダ保護サポート基金に掲載された黒柳さんのメッセージでは、歴代のパンダを見守ってきた経験に触れながら、カンカンへの特別な思いを語っている。
カンカンは1980年6月30日に死亡し、ランランも1979年9月4日に死亡した。2頭の来日から半世紀以上が経過した2026年現在も、カンカンとランランは日本のパンダブームの象徴として記憶されている。
【黒柳徹子と日本のパンダ史】半世紀以上の歩みを年表で整理
黒柳さんの個人的な思い出と、日本のパンダをめぐる出来事を時系列で並べると、幼少期の関心が社会的な活動へと広がっていった過程が見えてくる。
| 時期 | 出来事・人物 | 黒柳徹子との関係・背景 |
|---|---|---|
| 幼少期 | 叔父からパンダのぬいぐるみをもらう | パンダに関心を持つ原点。戦時中も大切に保管。 |
| 1967年 | ロンドン動物園のアンアン | 生きたパンダとの出会い。雑誌「anan」の命名につながるきっかけの一つ。 |
| 1972年10月28日 | カンカン・ランラン来日 | 日中国交正常化を記念したパンダの贈呈。日本で一大ブームが起きる。 |
| 2002年以降 | 日本パンダ保護協会の活動 | パンダ保護と自然環境の保全に向けた普及啓発・支援活動に関わる。 |
| 2017年8月30日 | シャンシャンの名前候補選考委員会 | 黒柳さんが6人の選考委員の一人として参加。 |
| 2023年2月21日 | シャンシャン中国返還 | 上野動物園で生まれた人気パンダが中国へ戻る。 |
| 2024年9月 | リーリー・シンシン中国返還 | 上野動物園で長年飼育された2頭が中国に帰国。 |
| 2026年1月27~28日 | シャオシャオ・レイレイ中国返還 | 1月27日に日本を出発し、28日に中国の雅安基地へ到着。国内飼育がゼロとなる。 |
| 2026年9月29日 | シャオシャオ・レイレイ一般公開 | 中国・雅安基地で返還後初めて一般公開される。 |
この年表から分かるのは、黒柳さんとパンダの関係が一時的なブームに依存していないことだ。個人的な思い出から始まり、パンダの魅力を広める活動、保護団体への参加、命名選考への協力へと段階的に広がっている。
特に2017年のシャンシャンの命名選考は、パンダ好きとしての知識と社会的な立場が結びついた出来事だった。
【日本パンダ保護協会の活動】黒柳徹子が名誉会長として取り組むパンダ保護の真相
黒柳さんのパンダ愛を語るうえで欠かせないのが、日本パンダ保護協会との関係だ。同協会は、ジャイアントパンダの保護と普及啓発を目的とする民間の非営利ボランティア団体である。黒柳さんは名誉会長を務めている。
協会の公式説明によると、活動理念は人とパンダの共存関係の構築と自然環境の保護。中国の臥龍パンダ保護研究センターを中心に、パンダの生息環境を改善するための支援や、国内での理解を広げる啓発活動に取り組んでいる。
日本パンダ保護協会が取り組んできた活動
活動はパンダの写真やかわいらしさを紹介するだけではない。協会の活動記録には、パンダの里親制度、保護研究への寄付、飼育関係者との交流、会員向けの情報共有などが記録されている。
2011年の活動報告では、協会の会員から預かった寄付金を、パンダの繁殖プロジェクトを支援するジャイアントパンダ保護サポート基金に届けたことが報告されている。黒柳さんは同基金の運営委員会顧問も務めていた。
ジャイアントパンダ保護サポート基金との違い
ここで整理しておきたいのが、日本パンダ保護協会とジャイアントパンダ保護サポート基金は、同じ組織ではないという点だ。
ジャイアントパンダ保護サポート基金は、公益財団法人東京動物園協会が運営する別の支援事業である。黒柳さんはこの基金の運営委員会顧問としても名前を連ねている。
東京動物園協会の公式説明によれば、寄付金の主な使途は次の3分野だ。
- パンダの保護に向けた教育・普及啓発活動
- 動物園におけるパンダの飼育環境の改善
- 東京都と中国野生動物保護協会が共同で進める国際的な保護活動への支援
飼育環境の改善には、パンダの生息地を再現した洞穴の設置や、健康管理に使う体重計の整備なども含まれる。つまり、支援はパンダを日本に呼ぶためだけのものではなく、日々の飼育管理や中国の保護活動にもつながっている。
黒柳徹子が訴えるのはパンダと生息環境を守ること
東京動物園協会の基金ページに掲載された黒柳さんのメッセージでは、野生のパンダが約1,800頭以上とされることに触れ、気候変動による竹林の減少など、生息環境の将来を心配している。
ジャイアントパンダは竹を主な食料とする動物だ。竹林が減少したり、生息地が道路や開発によって分断されたりすれば、餌の確保だけでなく、個体群同士の移動や繁殖にも影響する。
世界自然保護基金(WWF)の解説でも、パンダの生息地の分断や気候変動による竹林への影響が重要な課題として挙げられている。パンダを守ることは、パンダだけでなく、同じ森林に生息する多様な動植物の環境を守ることにもつながる。
【2026年最新】シャオシャオ・レイレイ中国返還で日本国内のパンダがゼロに
2026年、日本のパンダ史に大きな転換点が訪れた。上野動物園で飼育されていた双子のシャオシャオとレイレイが中国へ返還され、1972年のカンカン・ランラン来日以来、初めて日本国内でジャイアントパンダが飼育されていない状態となった。
シャオシャオとレイレイはなぜ中国へ帰ったのか
シャオシャオとレイレイは、2021年6月23日に上野動物園で生まれた双子のパンダだ。父親はリーリー、母親はシンシン。上野動物園で初めて誕生した双子のジャイアントパンダとして、多くの来園者に親しまれてきた。
東京都が2025年12月15日に発表した資料では、東京都と中国野生動物保護協会との協定に基づき、2026年1月下旬に中国へ返還する予定とされた。
その後、2頭は2026年1月27日に上野動物園を出発。翌28日、日本時間の午前6時頃に中国ジャイアントパンダ保護研究センターの雅安基地に到着し、検疫施設に入った。東京動物園協会も無事到着を公式発表している。
国内パンダ不在は1972年以来54年ぶり
今回の返還が特別な意味を持つのは、1972年から続いていた日本国内でのパンダ飼育が途切れたためだ。
2024年9月にはリーリーとシンシンが中国へ返還され、2023年2月にはシャンシャンも中国へ戻っていた。そして最後まで上野動物園に残っていたシャオシャオとレイレイが帰国したことで、国内の飼育施設からパンダがいなくなった。
これは日本のパンダファンにとって大きな節目だが、パンダが絶滅したという意味ではない。中国には野生個体と飼育個体が存在し、返還された2頭も保護研究施設で飼育されている。
2026年9月、シャオシャオとレイレイが中国で一般公開
返還後の2頭についても動きがあった。2026年9月29日、中国・四川省のジャイアントパンダ保護研究センター雅安基地で、シャオシャオとレイレイの一般公開が始まった。
返還後は新しい環境への適応や検疫などを経て、約8か月後に一般の来場者が姿を見られるようになった。日本国内での再会はできなくなったものの、2頭の成長を中国で見守る機会が生まれたことになる。
新しいパンダの来日はある?日中関係とパンダ外交
パンダの貸与は、動物園同士の単純な移動とは異なり、中国側との協定や保護研究プロジェクトに基づいて進められる国際的な取り組みだ。
1972年のカンカンとランランは日中国交正常化を記念した贈呈だった。一方、2011年に上野動物園へ来たリーリーとシンシンは、東京都と中国野生動物保護協会による繁殖研究プロジェクトに基づく貸与だった。両者は歴史的な位置づけが異なる。
中国側は2026年1月21日の外交部記者会見で、日本に多くのパンダファンがいることを承知しており、日本人が中国へパンダを見に来ることを歓迎すると説明した。ただし、これは日本への新たな貸与を約束する発言ではない。
2026年9月の報道でも、日中関係の緊張が続く中、新たなパンダ貸与の見通しは立っていないと伝えられている。もっとも、貸与が実現しない理由を一つの政治的要因だけに結びつけることはできない。外交関係、保護研究上の条件、協定など複数の要素が関わる問題だからだ。
【黒柳徹子のパンダ愛の真相】最新の思いとネットで混同されやすい4つの事実
黒柳さんのパンダ愛は、長年のテレビ出演やコレクションだけでなく、保護活動への参加にも表れている。2025年11月13日放送のテレビ朝日系特別番組では、日本へのパンダ初来日を当時の映像とともに振り返り、幼少期から大切にしているぬいぐるみも紹介された。
また、2025年の「anan」55周年記念インタビューでは、中国・四川省を訪れた際に日本から帰ったパンダと再会した思い出を語り、機会があれば日本にいたパンダたちに会いに中国へ行きたいという気持ちも明かしている。
誤解1:黒柳徹子は1972年に初めてパンダを知った?
これは正確ではない。パンダを知るきっかけは幼少期のぬいぐるみであり、生きたパンダとの出会いは1967年のロンドン動物園だった。1972年のカンカン・ランラン来日は、日本でパンダが広く知られる大きな契機となった出来事である。
誤解2:黒柳徹子がシャンシャンの名前を決めた?
黒柳さんは選考に参加したが、最終決定者ではない。2017年8月30日に開催された名前候補選考委員会には6人が参加し、応募総数322,581件のうち、応募数上位100点などを検討して8候補を選出した。
その後、中国との協議などを経て東京都が正式名称を決定した。黒柳さんは選考委員の一人として関わったのであり、シャンシャンという名前を単独で命名したわけではない。
誤解3:ジャイアントパンダは現在もIUCNで絶滅危惧種の「危機」に分類されている?
保護が必要な動物であることは間違いないが、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは、2016年に絶滅危惧(EN)から危急(VU)へと評価が変更された。
これは保護活動によって野生個体数が回復したことを反映した評価だ。ただし、危急は絶滅のおそれがなくなったという意味ではない。生息地の分断や気候変動など、依然として保全上の課題が残されている。
誤解4:日本にパンダがいないのは、保護活動が終わったから?
これも誤解だ。国内での飼育展示がゼロになったことと、パンダの保護活動が終了することは別問題である。
東京動物園協会は2026年2月以降もジャイアントパンダ保護サポート基金の運営を継続しており、教育普及活動、飼育環境の改善、国際的な保全活動への支援を続けている。日本パンダ保護協会も保護の普及啓発を目的とした活動を展開している。
【プロの結論】黒柳徹子のパンダ愛から見える本当の保護活動の意味
黒柳徹子さんのパンダ愛を振り返ると、そこには三つの段階がある。
第一は、幼少期にぬいぐるみを通じて芽生えた純粋な好奇心。第二は、テレビというメディアを通じてパンダの魅力を広く伝えた普及活動。第三は、日本パンダ保護協会の名誉会長やジャイアントパンダ保護サポート基金の顧問として関わる保護活動だ。
この歩みで注目したいのは、パンダを見られることだけを最終目的にしていない点である。パンダを好きになることを入口に、その動物がどこで暮らし、何を食べ、どのような環境の中で生きているのかに関心を広げている。
また、パンダの保護は飼育施設の中だけで完結しない。中国の山岳地帯にある竹林や森林、生息地をつなぐ環境、そこで暮らす地域社会まで考える必要がある。動物園でパンダを見る経験が、こうした自然保護への理解につながることに大きな意味がある。
2026年、日本国内からパンダの姿はなくなった。しかし、黒柳さんが長年伝えてきたパンダへの関心や、保護活動に参加するための機会まで失われたわけではない。
黒柳徹子とパンダに関するよくある質問(FAQ)
Q1:黒柳徹子がパンダ好きになった理由は何ですか?
A1:小学生の頃、叔父からアメリカ土産としてパンダのぬいぐるみをもらったことがきっかけです。その後、1967年にロンドン動物園で本物のパンダ、アンアンと出会い、関心を深めました。
Q2:黒柳徹子はシャンシャンの命名に関わったのですか?
A2:はい。2017年8月30日に開催された赤ちゃんパンダの名前候補選考委員会に参加しました。ただし、最終的に名前を決めたのは東京都であり、黒柳さんが単独で命名したわけではありません。
Q3:2026年現在、日本でパンダを見ることはできますか?
A3:2026年11月現在、日本国内で飼育・展示されているジャイアントパンダはいません。シャオシャオとレイレイは2026年1月に中国へ返還され、同年9月29日から中国・雅安基地で一般公開されています。
まとめ:黒柳徹子のパンダ愛は2026年以降も保護活動へ続く
黒柳徹子さんとパンダの関係は、幼少期に叔父からもらったぬいぐるみから始まり、1967年のロンドン動物園での出会い、1972年のカンカン・ランラン来日、日本パンダ保護協会での活動へと続いてきた。
シャンシャンの名前候補選考に参加したことや、ジャイアントパンダ保護サポート基金の顧問を務めていることからも、黒柳さんの関心が単なるコレクションや趣味にとどまらないことが分かる。
2026年1月、シャオシャオとレイレイが中国へ返還されたことで、日本国内のパンダ飼育は54年ぶりにゼロとなった。さらに9月には2頭が中国で一般公開され、新たな段階を迎えている。
今後の日本へのパンダ再来日は、日中両国の協議や保護研究プロジェクトの進展に左右される。国内で再びパンダを見られる日を期待する一方、野生のパンダとその生息地を守る取り組みに目を向けることも大切だ。
黒柳徹子さんが長年伝えてきたメッセージは、パンダをかわいいと思う気持ちを、命や自然環境を守る行動につなげること。その思いは、日本にパンダがいない時代になっても変わらない。