久米通賢の名前を香川県の歴史に刻んだ最大の功績が、坂出塩田の開発です。
この事業は、単に海岸を埋め立てて塩田を造る土木工事ではありませんでした。高松藩の財政再建、坂出の雇用創出、製塩産業の育成という複数の課題を同時に解決しようとした地域振興プロジェクトでした。
なぜ坂出に塩田を造る必要があったのか?
1820年代の高松藩は財政難に直面していました。坂出村でも人口に対して田畑が少なく、生活のために村を離れる若者がいたことが、2026年の鎌田共済会郷土博物館の展示解説で紹介されています。
そこで通賢が着目したのが、坂出沖の遠浅の海でした。
坂出周辺は古くから製塩と関係が深く、地形的にも塩田開発に適した条件を備えていました。
通賢が構想したのは、入浜式塩田です。
入浜式塩田は、潮の満ち引きを利用して海水を塩田に引き込み、日光や風で水分を蒸発させて塩を作る方式です。
広い塩田を整備すれば、安定した製塩が可能になり、販売収入や藩への税収も期待できます。
通賢は1824年(文政7年)10月、塩田開発の建白書と設計図を高松藩に提出しました。
2026年の博物館資料から判明した事前調査の緻密さ
今回の歴史的な節目で特に注目したいのが、鎌田共済会郷土博物館が2026年春に紹介した「経済元録記」などの資料です。
通賢は計画を提出する前から、瀬戸内各地の製塩業を調査していました。
調査対象には、赤穂、撫養、多喜浜、竹原、三田尻などの製塩地が含まれています。
注目されるのは、塩を作る技術だけでなく、販売価格や流通経費まで調べていた点です。
博物館が紹介した「売仕切」の資料には、塩の数量、代金、手数料、上納銀などの取引情報が記されています。
つまり通賢は、塩田を造れば収益が上がるという単純な発想ではなく、製塩業が事業として成立するかどうかを具体的な数字で検討していたのです。
この調査姿勢は、現代の公共事業における事業計画や市場調査にも通じるものがあります。
1826年から始まった坂出塩田開発の規模
1826年(文政9年)、高松藩は通賢を坂出墾田の普請奉行に任命し、開発工事を開始しました。
坂出市の公式紹介によると、事業の規模は次のとおりです。
坂出塩田開発の主要データ約132ha

開墾面積約194万人
延べ動員人員約2万両
藩からの工費1826年
開発工事開始
出典:坂出市公式観光情報。約194万人は実人数ではなく延べ人員。
藩からの約2万両だけでは工費が足りず、通賢は私財も投じたと伝えられています。
これほど大規模な工事を進めるには、堤防や水門の設計、地盤や海岸線の測量、資材の確保、作業員の動員など、多方面の調整が必要でした。
通賢は測量家としての知識を生かし、設計から工事監理までを担いました。塩田の構造図だけでなく、建築費用の見積もり、塩の生産量、年貢収入の予測などの自筆資料も残っています。
1829年完成と1833年完成の違いには注意
坂出塩田の完成時期については、資料によって記載の仕方が異なります。
坂出市の観光情報では、1829年(文政12年)に東大浜・西大浜を含む約132haの開墾に成功したと説明されています。
一方、鎌田共済会郷土博物館の詳細な略年表では、区域ごとの整備過程が記されています。
- 1826年:坂出西新開の開発開始。
- 1829年:江尻新開・中(東)新開の開発開始。
- 1833年:西新開・中(東)新開・江尻新開が完成。
このように、1829年を大きな事業達成の節目として紹介する説明と、複数区域の工事を追跡する博物館の年表には違いがあります。
事業の全体像を理解するには、単一の完成年だけでなく、各地区の段階的な整備にも目を向ける必要があります。
【重要文化財と2026年最新情報】久米通賢の資料はどこで見られる?
久米通賢の業績を実物から知ることができる場所が、香川県坂出市にある鎌田共済会郷土博物館です。
同館には、通賢の科学技術や塩田開発に関する貴重な資料が保存されています。
久米通賢関係資料は2014年に国の重要文化財に指定
文化庁の文化遺産情報によると、「久米通賢関係資料」は2014年8月21日に国の重要文化財に指定されました。
指定された資料は合計1,061点です。
その内容は、単なる人物の遺品や古文書にとどまりません。
主な資料には次のものがあります。
- 地平儀:通賢が製作した測量器具。
- 星眼鏡:天体観測に使われた望遠鏡。
- 御内御用側量方位記乙:測量地点や方位、距離を記録した野帳。
- 測量絵図帳:土地の形状などを記録した資料。
- 坂出塩田の設計図:堤防や塩田の構造を伝える資料。
- 経営関係の覚書:塩の生産量や収益、工事費用などを記録した資料。
- 武備機械鉤玄:軍器の設計や使用法などを記した著述。
重要なのは、これらの資料を組み合わせることで、通賢の構想から実際の測量、設計、工事、経営までの過程を具体的に追えることです。
文化庁の解説でも、19世紀前半の日本で西洋由来の科学知識がどのように受け入れられ、実際の社会で活用されたのかを示す資料群として、高く評価されています。
2026年は坂出墾田開発開始から200年
2026年は、通賢が坂出墾田の開発工事を始めてから200年という記念すべき年です。
鎌田共済会郷土博物館では、2026年を通じて久米通賢関係資料を活用した企画展示を展開しています。
特に注目されるのが、2026年10月6日に発表された展示替えです。
2026年10月から2027年3月までの展示では、第2展示室の「久米通賢資料室」において、坂出塩田の築造に必要だった資材と人材に焦点を当てています。
具体的には、次のようなテーマです。
- 石材・材木・土などの建設資材
- 石工などの専門技術者
- 工事に従事した人足
- 塩田開発と周辺地域との関係
また、2026年は6つのテーマを設定し、前期・後期に分けてシリーズ展示を実施しています。
同年4~9月の展示では、塩業先進地の経営調査や売仕切など、通賢が事業計画を立てるまでの準備過程が取り上げられました。10月以降は、実際の工事を支えた物資や人々に焦点が移っています。
この展示構成は、塩田開発を一人の偉人の成功物語としてだけでなく、地域全体が関わった大規模事業として理解するうえで興味深いものです。
鎌田共済会郷土博物館の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施設名 | 鎌田共済会郷土博物館 |
| 所在地 | 香川県坂出市本町1-1-24 |
| 開館時間 | 9:30~16:30 |
| 最終入館 | 16:00 |
| 休館日 | 月曜日・祝日など |
| 入館料 | 無料 |
| 主な展示 | 久米通賢関係資料、地平儀、星眼鏡など |
2026年の展示内容を直接見たい場合は、同館の最新のお知らせで開館状況や展示期間を確認するとよいでしょう。
【坂出塩田の父と呼ばれる理由】久米通賢の功績を再評価
久米通賢が「坂出塩田の父」と呼ばれる理由は、塩田開発を提案しただけではありません。
構想を立て、経済的な実現可能性を調査し、測量し、設計し、実際の工事を指揮したという一連の功績が評価されているためです。
理由1:坂出の産業構造を変えた
塩田開発以前の坂出では、農地の不足などによって生活基盤が十分に整っていない状況がありました。
通賢が進めた開発は、海岸部に新たな産業用地を生み出し、地域に製塩という大きな経済活動を根づかせるものでした。
塩は当時の生活に欠かせない物資であり、製塩業は地域経済を支える重要な産業でした。
坂出が「塩の町」として発展するきっかけをつくったことが、通賢の評価につながっています。
理由2:科学技術を実際の社会問題の解決に使った
通賢の優れた点は、学問を学問のままで終わらせなかったことです。
測量技術を使って土地の状態を把握し、設計図を作り、土木工事に応用しました。
天文学や数学で身につけた知識も、測量の精度を高めるための基礎になりました。
加えて、製塩業の収益構造まで調べたことで、技術面と経済面の両方から事業を成立させようとしました。
これは、江戸時代後期の日本における科学技術の実用化を示す重要な事例です。
理由3:個人の功績だけではなく地域の協力を引き出した
約194万人という延べ動員人員が示すように、坂出塩田の開発は多数の人々が関わった大事業でした。
通賢は普請奉行として全体を指揮しましたが、実際の完成には職人や人足、資材を供給する地域、藩の支援が不可欠でした。
2026年の博物館展示が資材や人材に焦点を当てているのも、この事業が地域の共同作業だったことを示しています。
したがって「坂出塩田の父」という呼び名は、開発を主導した人物への敬意であると同時に、坂出の産業基盤を築いた功績を象徴するものでもあります。
よくある誤解と正しい理解
| よくある誤解 | 正しい理解 |
|---|---|
| 久米栄左衛門と久米通賢は別人 | 同一人物の通称と実名 |
| 通賢は塩田開発だけを行った | 天文学・測量・軍器・土木など多分野で活動 |
| 伊能忠敬と共同で全国地図を作った | 讃岐測量で案内・接待応接の役割を担った |
| 1826年に塩田が完成した | 1826年は開発工事の開始年 |
| 重要文化財は地平儀だけ | 古文書・絵図・器具など1,061点の資料群 |
| 2026年は単なる生誕記念年 | 坂出墾田開発開始から200年の節目 |
【プロの結論】久米通賢の本当の偉大さは「科学と経営の融合」にある
久米通賢の歴史的価値を考える際、単に「江戸時代の発明家」「坂出塩田を造った偉人」という肩書だけで理解するのは十分ではありません。
最も注目すべきなのは、科学技術、経済調査、行政、現場の施工管理を一つの事業に結びつけた点です。
間重富から学んだ天文学や測量術は、土地を正確に把握する技術へと発展しました。その技術は高松藩の地図製作に活用され、さらに坂出の大規模な土木事業へとつながっています。
一方、塩田開発の事前調査では、他地域の販売価格や流通経費まで調べていました。
つまり通賢は、優れた技術者であると同時に、事業の採算性や地域経済の将来を考える経世家でもあったのです。
この点に、久米通賢を単なる郷土の偉人ではなく、日本の科学技術史や産業史の中で評価すべき理由があります。
【久米通賢に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:久米通賢の読み方は「くめみちかた」と「くめつうけん」のどちらですか?
久米通賢は、国土地理院の人物紹介では「くめみちかた」と読まれています。一方、後世には「くめつうけん」という呼称も広く定着しました。歴史上の読み方を説明する場合は「くめみちかた」が適切です。
Q2:久米通賢と久米栄左衛門は別人ですか?
別人ではありません。久米栄左衛門通賢という同一人物です。栄左衛門が通称、通賢が実名に当たります。
Q3:久米通賢と伊能忠敬はどのような関係でしたか?
1808年の伊能忠敬による讃岐地方の測量で、通賢は案内・接待応接の役割を担いました。伊能忠敬の全国測量と、通賢自身が行った高松藩領内の測量は別の事業です。
Q4:久米通賢が坂出塩田を開発したのは何年ですか?
1826年(文政9年)に開発工事が始まりました。坂出市の紹介では1829年に約132haの開墾に成功したとされます。鎌田共済会郷土博物館の詳しい年表では、区域ごとの整備が1833年まで続いたと記録されています。
Q5:久米通賢の資料は重要文化財ですか?
はい。「久米通賢関係資料」1,061点が2014年8月21日に国の重要文化財に指定されています。測量器具、天体観測器具、古文書、設計図、測量記録などが含まれます。
Q6:久米通賢の資料はどこで見られますか?
香川県坂出市本町にある鎌田共済会郷土博物館で見ることができます。第2展示室に久米通賢資料室があり、2026年10月から2027年3月にかけても関連展示が行われています。
Q7:2026年に久米通賢が注目されている理由は何ですか?
1826年に始まった坂出墾田開発工事から200年を迎えたためです。鎌田共済会郷土博物館では、通賢の事前調査や塩田建設に必要だった資材・人材などをテーマにした企画展示を展開しています。
Q8:久米通賢が「坂出塩田の父」と呼ばれるのはなぜですか?
坂出沖の塩田開発を藩に提案し、測量・設計・工事監理を主導して、坂出の製塩業発展の基礎を築いたためです。技術面だけでなく、地域の雇用や高松藩の財政再建にも貢献したことが評価されています。
まとめ:久米通賢は坂出の未来を設計した江戸時代の科学者
久米通賢(久米栄左衛門通賢)は、1780年から1841年まで生きた江戸時代後期の科学者・測量家・発明家です。
19歳で間重富に師事して天文学や測量術を学び、帰郷後は高松藩の測量方として領内の地図製作に携わりました。伊能忠敬の讃岐測量でも案内・接待応接を担当し、当時の測量活動に関わっています。
そして最大の功績が、1826年に始まった坂出塩田の開発です。約132haという大規模な開墾は、坂出が塩業の町として発展する基盤になりました。
2026年は、その開発開始から200年という節目に当たります。鎌田共済会郷土博物館の企画展示や重要文化財の収蔵資料は、通賢の事績を改めて知る貴重な機会になっています。
久米通賢の本当の功績は、科学の知識を人々の生活と地域経済の発展につなげたことです。
坂出塩田の父という呼び名の背景には、一人の技術者の才能だけでなく、綿密な調査、実行力、そして地域の人々とともに未来を築いた仕事があります。