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創氏改名とは何だったのか?1939年法改正から強制の実態まで徹底解説

天音 栞 天音 栞 • 更新: • 公開: • 読了約 25 分
目次

創氏改名とは、1940年、日本の植民地統治下にあった朝鮮で実施された、朝鮮人の姓を日本の家制度に基づく「氏」へ変更させる制度である。1939年11月10日に公布された制令第19号・第20号を法的根拠とし、1940年2月11日に施行された。単に朝鮮人に日本風の名前を付けさせた政策ではなく、朝鮮固有の姓と血縁意識、戸籍上の家族関係にまで介入した皇民化政策の一環だった。

この制度を理解するうえで欠かせないのが、「創氏」と「改名」は法律上、異なる扱いだったという事実である。氏を新設することは義務だった一方、個人の名前を日本風に変更することは、法令上は許可を得て行う選択事項だった。しかし、朝鮮総督府や地方行政、警察、学校などを通じて創氏の届出が強く促され、拒否しにくい社会環境が形成された。2026年の現在も議論されるこの政策について、法令の原文、当時の行政記録、歴史研究を手掛かりに、その背景から実態、戦後の姓名回復までを整理する。

【基礎知識】創氏改名とは何か?朝鮮の姓を変えた制度の本質

創氏改名

創氏改名の意味と「姓」から「氏」への変更

創氏改名は、「創氏」と「改名」という2つの行為を組み合わせた呼称である。

創氏とは、朝鮮人の従来の姓とは別に、日本の家制度における家の名称である「氏」を新たに設けることを指す。改名とは、従来の個人名を別の名前に変更することだ。

両者の違いを理解するには、当時の朝鮮社会における「姓」と日本の「氏」の違いを知る必要がある。

朝鮮の姓は、父系の血統や祖先とのつながりを示すものであり、姓と本貫を組み合わせることで、自らがどの血縁集団に属するかを示していた。本貫は、その姓の始祖に結び付く発祥地を示すものである。

一方、日本の氏は、戸籍上の家族集団である「家」の名称として機能していた。婚姻や養子縁組などによって所属する家が変われば、氏も変わり得るという性格を持っていた。

つまり、創氏改名は単純に漢字表記を変更する政策ではない。朝鮮社会に根付いていた血縁を中心とする姓の仕組みに、日本の家制度に基づく氏の仕組みを導入する制度変更だったのである。

創氏改名が朝鮮社会に与えた意味

朝鮮総督府が導入した制度では、従来の姓が戸籍から完全に消滅したわけではない。しかし、戸籍上の氏名欄が変更され、従来の姓は「姓及本貫」に記載される形となった。

その結果、法律上の氏名として扱われる名称と、血統を示す従来の姓との位置付けが変化した。

国史編纂委員会の歴史解説では、この政策を日本の天皇を頂点とする家族制度に朝鮮人を組み込み、従来の血縁集団の影響力を弱めようとした政策として説明している。

ここで注目したいのは、創氏改名が名前の変更だけにとどまらず、家族制度、戸籍制度、民族的な帰属意識に関わる政策だったという点だ。

【歴史年表】1939年の朝鮮民事令改正から1940年の施行まで

1939年11月10日、制令第19号と第20号が公布

創氏改名の直接的な法的根拠となったのは、1939年11月10日に朝鮮総督府が公布した2つの制令である。

1つ目は制令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」。朝鮮民事令を改正し、朝鮮人の戸籍に日本の家制度に基づく氏を導入する内容だった。

2つ目は制令第20号「朝鮮人ノ氏名ニ關スル件」。氏名の変更に関する規定を定めたもので、改氏・改名の条件や制限を設けていた。

これらの法令は同じ日に公布されたが、規定している内容は異なる。特に制令第19号の附則には、朝鮮人の戸主が施行後6か月以内に新しい氏を定め、府尹または邑面長に届け出ることが記されていた。

1940年2月11日、制度が正式に施行

施行日は1939年12月26日付の朝鮮総督府令第219号によって定められ、昭和15年2月11日となった。

この日から同年8月10日までが、戸主による氏の設定届出期間である。届出を行わなかった場合も氏の設定を免れることはできず、施行時点での戸主の姓が自動的に氏として扱われる仕組みだった。

以下は、創氏改名に関わる主要な法令と歴史的な転換点を整理したものである。

年月日 法令・出来事 内容と歴史的意味
1912年4月 朝鮮民事令施行 朝鮮人の親族・相続関係などに朝鮮の慣習を適用する法体系を整備。
1937年 日中戦争開始 皇民化政策と戦時動員体制が強化される。
1939年11月10日 制令第19号 朝鮮民事令を改正し、氏の新設を制度化。
1939年11月10日 制令第20号 朝鮮人の氏名変更に関する規定を制定。
1939年12月26日 朝鮮総督府令第219号 1940年2月11日の施行を決定。
1940年2月11日 創氏改名施行 氏の設定と届出が開始される。
1940年8月10日 設定創氏の届出期限 新しい氏の届出期間が終了。未届出の場合は法定創氏となる。
1945年8月15日 日本の敗戦と朝鮮解放 日本の植民地統治が終結する。
1946年10月23日 朝鮮姓名復旧令 朝鮮半島南部の米軍政庁が法令第122号を公布し、日本式氏名の復旧を進める。

この年表で重要なのは、1940年8月10日が創氏制度そのものの終了日ではなく、設定創氏の届出期限だったという点である。制度は日本の敗戦まで植民地統治の枠組みの中で存続した。

法令の公布日、施行日、届出期限を分けて理解することで、創氏改名の歴史的な経緯を正確に把握できる。

【法律の違い】創氏と改名は何が違う?設定創氏・法定創氏を解説

創氏は義務、改名は法律上の選択事項

創氏改名をめぐる議論で、最も誤解されやすいのが創氏と改名の違いである。

一般的には、朝鮮人全員が日本風の姓名を強制的に名乗らされたというイメージで説明されることが多い。しかし、法令を読むと、姓に相当する氏の設定と、個人の名の変更は異なる制度として設計されていたことが分かる。

創氏は義務だった。戸主は新しい氏を設定し、定められた期間内に届け出なければならなかった。届け出をしなかった場合も、戸主の従来の姓が氏として適用された。

一方、改名は法律上の義務ではなかった。制令第20号では、氏名の変更について原則禁止とし、正当な事由があり、所定の許可を受けた場合に限って変更できる仕組みを定めていた。日本風の名前への変更は、この許可制度のもとで行われた。

したがって、創氏改名という一つの言葉で

設定創氏とは何か

設定創氏とは、戸主が新しい氏を自ら定め、役所に届け出る方式である。

新しく作る氏は、従来の姓をそのまま使うだけではなく、地名や本貫などに関連する文字を組み合わせるなど、さまざまな形が存在した。

ただし、完全に自由な命名が認められていたわけではない。朝鮮総督府は制度の目的に沿う日本式の氏を推奨し、受理されない名称も設けていた。

法定創氏とは何か

法定創氏とは、設定創氏の届出を期限までに行わなかった場合、法律の規定によって戸主の従来の姓が氏として扱われる仕組みである。

つまり、届出を拒否したとしても、氏の設定そのものを回避することはできなかった。

この仕組みは、創氏が単なる希望者向けの制度ではなく、朝鮮人の戸籍に一律に適用される制度だったことを示している。

2つの方式を混同してはいけない理由

設定創氏と法定創氏は、どちらも創氏という制度の中に存在する。ただし、本人側の届出によって新しい氏を定めたのか、法律の規定によって従来の姓が氏となったのかという点が異なる。

そのため、約80%という届出率を、そのまま日本風の姓名に変更した人の割合と解釈するのは正確ではない。これは主に設定創氏の届出に関する数字であり、法定創氏になった人々も制度の適用対象だった。

【実態検証】創氏改名は本当に強制されたのか?約79.3%の届出率の背景

当初の届出率は低かった

朝鮮総督府が制度を施行した当初、朝鮮社会で新しい氏を届け出る動きは必ずしも活発ではなかった。

国史編纂委員会の歴史解説によると、1940年2月11日に届出が始まったものの、同年4月までの申告率は5%に満たなかった。これは、朝鮮人にとって姓が単なる戸籍上の記号ではなく、祖先や一族とのつながりを示す重要なものだったこととも関係している。

親日的な立場にあった朝鮮人の有力者の中にも、従来の姓を変えることに消極的な人々がいた。

地方行政や学校を通じた圧力

届出率が伸び悩むと、朝鮮総督府は各種の講演会やパンフレットを利用し、氏の設定を積極的に勧めるようになった。

地方官庁や行政機関にも届出状況の報告が求められ、地域ごとに創氏を徹底させる活動が展開された。地方によっては、届出実績を競うような状況も生まれていた。

圧力は官公庁だけに限られなかった。学校では教員や職員の創氏状況が調査され、個別の勧告も行われた。児童や生徒を通じて、その父親や祖父に届出を促す方法も用いられた。

一部の学校では、創氏した児童に名札を付けさせることもあった。こうした扱いは、創氏していない児童に心理的な負担を与えるものだった。

官公庁や警察署に勤務する朝鮮人職員にも、率先して創氏するよう圧力がかかった。生活や職業に直結する立場にある人々にとって、行政の要請を拒否することは容易ではなかった。

なお、創氏しなければ学校に入学できない、就職に必ず不利益が生じるといった話も当時流布していたが、こうした話をすべて全国一律の法的制裁と同一視することはできない。実際に確認される行政的な勧奨や学校での圧力と、地域社会に広がった不利益のうわさは分けて考える必要がある。

1940年8月10日、届出率は約79.3%に到達

当初は低かった届出率は、行政による大規模な働きかけの結果、期限までに大きく上昇した。

国史編纂委員会の『新編韓国史』では、1940年8月10日時点の創氏届出率を、戸籍総数の79.3%としている。

この数字は、制度が朝鮮社会全体を巻き込む形で実施されたことを示す重要な指標である。しかし、79.3%という数字だけを見て、約8割の人々が自発的に日本風の名前を選択したと理解するのは適切ではない。

届出の背景には、地方行政による勧奨、職場や学校での圧力、地域単位の実績競争などが存在していたからだ。

加えて、残りの約20%も制度から除外されたわけではない。期限までに設定創氏の届出をしなかった戸主については、法定創氏によって従来の姓が氏として扱われた。

つまり、約79.3%という数字は日本風の個人名に改名した割合ではなく、設定創氏の届出状況を示す数字として理解しなければならない。

抵抗や消極的な対応も存在した

創氏改名に対しては、積極的に賛同する人々がいた一方、反発や抵抗を示す人々も存在した。

当時の資料には、創氏を批判する発言をした人物が取り締まりの対象になった事例や、制度を風刺するような氏を届け出ようとした事例も記録されている。

また、創氏を届け出た後も、日常生活では従来の朝鮮名を使い続けたり、新しい氏名と旧名を併記したりする人々がいた。

この事実は、戸籍上の変更が、そのまま人々の意識や民族的な帰属意識の変更を意味していたわけではないことを示している。

【政策の背景】皇民化政策と朝鮮総督府が創氏改名を進めた理由

日中戦争後に加速した皇民化政策

創氏改名の背景を理解するには、1937年の日中戦争以降、日本が朝鮮で進めた戦時統制と皇民化政策を確認する必要がある。

当時の朝鮮総督府は、朝鮮人を日本の戦争遂行体制に組み込むため、教育、言語、宗教、家族制度など幅広い分野で政策を展開していた。

その代表的なものが、皇国臣民の誓詞の実施、朝鮮教育令の改正、日本語使用の推進、神社参拝の奨励などである。

創氏改名も、こうした政策と同じ時代背景の中で実施された。名前を日本式の家制度に合わせることで、朝鮮人を日本の社会制度に組み込もうとする意図があった。

内鮮一体という統治理念

朝鮮総督府が創氏改名を説明する際に強調した理念が「内鮮一体」だった。

当時の総督である南次郎は、1939年11月の法令公布に際し、朝鮮人が日本式の氏を名乗れるようになることを、内鮮一体の実現に沿った制度改正として説明した。

しかし、この説明には大きな問題があった。制度上、日本式の氏を朝鮮人に導入する一方で、日本人と朝鮮人を完全に同じ存在として扱うことは避けられていたからだ。

実際、朝鮮総督府は朝鮮人が日本人とまったく同じ氏を名乗ることを警戒し、朝鮮人であることが識別できるような氏のあり方も推奨していた。

同化を掲げながら、差別的な区別を維持する。この矛盾は、植民地統治における創氏改名の重要な特徴だった。

家制度と戸籍制度への介入

創氏改名の目的は、表面的な名前の統一だけではなかった。

日本の家制度では、戸籍上の家を単位として氏が定められ、家族関係が管理されていた。一方、朝鮮社会では父系血統を中心とする宗族や門中などの血縁集団が重要な社会的役割を持っていた。

制令第19号によって氏を導入することは、朝鮮社会の伝統的な血縁秩序に、日本の家制度に基づく法的な枠組みを重ねることを意味した。

また、創氏改名と同時に行われた朝鮮民事令の改正では、養子縁組など親族法に関する複数の規定も変更された。従来の朝鮮の慣習に基づいていた親族関係の仕組みにも、日本の民法の考え方が導入されたのである。

こうした制度改正を合わせて見ると、創氏改名は単独の姓名政策ではなく、家族制度全体の再編を伴う植民地政策だったことが分かる。

【戦後への影響】1945年の解放後、朝鮮人の姓名はどうなったのか

1945年8月15日、植民地統治が終結

1945年8月15日の日本の敗戦によって、朝鮮に対する日本の植民地統治は終わった。

人々の間では従来の朝鮮名を再び使用する動きが広がり、学校でも児童・生徒の名前を元に戻す動きが見られた。

ただし、植民地統治の終了と戸籍制度の変更は、同じタイミングで完了したわけではない。行政記録に残された日本式氏名をどのように修正するかという法的な問題が残っていた。

1946年の朝鮮姓名復旧令

朝鮮半島南部を統治していた米軍政庁は、1946年10月23日、軍政庁法令第122号として「朝鮮姓名復旧令」を公布した。

この法令は、日本統治時代の創氏制度によって日本式氏名に変更された戸籍上の記載を、原則としてその変更当初から無効とするものだった。

ただし、創氏改名のもとで成立した法律行為については影響を受けないという規定も置かれていた。つまり、姓名の復旧と、それ以前に成立した法律関係の安定性を区別した制度設計だった。

また、日本式の名前をそのまま維持したい人には、所定の期間内に届け出る仕組みも設けられていた。

この法令によって、朝鮮半島南部では植民地時代に導入された氏の制度を改め、従来の朝鮮の姓名に戻すための法的手続きが整えられた。

創氏改名が残した戸籍上の問題

創氏改名の影響は、姓名を元に戻すだけでは解決しない問題も生み出した。

特に深刻だったのが、戦時中の強制動員や労働動員に関する記録である。

日本軍の兵士・軍属、炭鉱、軍需工場などで働いた朝鮮人の名簿には、日本式の氏名が記載されている場合があった。そのため、解放後に本人の朝鮮名と当時の記録を照合することが難しくなるケースが生じた。

本人が生存している場合でも、名簿上の日本式氏名と本人が同一人物であることを証明する必要があった。本人が死亡している場合には、身元の特定がさらに困難になることもあった。

名前は個人を識別するための基本的な情報である。行政による姓名の変更が、戦後の家族による身元確認や歴史的な被害の検証にまで影響を及ぼした点は、創氏改名が残した重大な問題の一つである。

【研究・史料】水野直樹『創氏改名』から読み解く歴史資料と研究の視点

水野直樹『創氏改名』の研究上の意義

創氏改名の歴史を詳しく知るための日本語文献として重要なのが、歴史学者・水野直樹による岩波新書『創氏改名 日本の朝鮮支配の中で』である。

本書は2008年3月に岩波書店から刊行された246ページの研究書で、創氏改名の成立過程、実施時の強制の実態、批判や抵抗に対する取り締まり、政策における同化と差異化、戦後に残された問題を扱っている。

特に重要なのは、創氏改名を単なる日本式姓名への変更として説明せず、日本の朝鮮支配の構造と関連付けて検証している点だ。

同書は、朝鮮総督府など日本側の行政資料を用いて、制度がどのように実施され、批判的な言動がどのように取り締まられたかを検討している。

制度の法律上の仕組みだけでなく、行政現場での運用や朝鮮社会の反応を理解するための基礎文献として位置付けられる。

研究を深めるために確認したい史料

創氏改名を調べる場合、研究書だけでなく、当時の法令や公的記録を直接確認することも重要である。

特に確認しておきたいのは、次の資料である。

  • 1939年11月10日付『朝鮮総督府官報』第3843号:制令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」の原文を確認できる。
  • 同日付の制令第20号:「朝鮮人ノ氏名ニ關スル件」によって氏名変更の法的条件を確認できる。
  • 1939年12月26日付の朝鮮総督府令第219号:1940年2月11日の施行日を確認できる。
  • 朝鮮総督府の行政資料:届出の進捗、地方行政による推進、学校や職場での実施状況を調べる手掛かりとなる。
  • 1946年10月23日付の軍政庁法令第122号:朝鮮姓名復旧令の内容と戦後の姓名回復の法的根拠を確認できる。

これらの資料は韓国国史編纂委員会の韓国史データベースなどで確認できる。特に朝鮮総督府官報の原文は、後世の解説だけでは分からない法令の文言や制度の適用範囲を確認するうえで重要である。

関連する研究と文献

水野直樹の研究に加え、次の文献も創氏改名の理解を深めるうえで参考になる。

  • 宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』(明石書店、1992年):創氏改名の制度的背景や朝鮮社会との関係を考える際の参考文献。
  • 坂元真一「『創氏改名』が残した課題」(2002年):法社会学の観点から、1940年の異姓養子解禁と戦後の韓国大法院判例との関係を検討した論文。
  • 青野正明「朝鮮総督府の『創氏』構想―1920年代を中心に―」(2002年):創氏制度の構想が1939年の法改正以前から検討されていたことを明らかにする研究。
  • 青野正明「創氏改名の政策決定過程―朝鮮民事令改正をみる視点から」(2012年):制度が決定されるまでの政策過程を検証する研究。

これらを組み合わせて読むことで、創氏改名が1940年に突然登場した政策ではなく、それ以前から検討されてきた朝鮮の家族制度・戸籍制度の再編と結び付いていたことが見えてくる。

【よくある誤解】創氏改名に関する疑問を史実から検証

Q1:創氏改名はいつからいつまで実施された?
A1:1939年11月10日に関連法令が公布され、1940年2月11日に施行された。設定創氏の届出期間は1940年8月10日までだった。制度はその後も日本の敗戦まで存続し、戦後は地域ごとの法的措置によって姓名の復旧が進められた。

Q2:創氏改名では全員が日本風の名前に変更したの?
A2:個人の名を日本風に変更する改名は、法令上は義務ではなかった。義務だったのは氏の設定である。ただし、行政機関や学校、職場などで強い圧力が存在したため、制度を単純な任意の姓名変更と説明することもできない。

Q3:設定創氏と法定創氏の違いは?
A3:設定創氏は戸主が新しい氏を定めて役所に届け出る方式である。法定創氏は届出をしなかった場合に、戸主の従来の姓を法律によって氏とする方式だった。どちらの場合も創氏制度の対象となった。

Q4:創氏改名を拒否した人には罰則があった?
A4:制令第19号は届出をしなかった場合に法定創氏とする仕組みを定めていた。したがって、届出を拒否しても制度の適用を回避できなかった。また、学校や職場、行政現場ではさまざまな圧力が確認されている。ただし、すべての拒否者に一律の刑罰が科されたという制度ではない。

Q5:1940年の創氏改名で朝鮮人の姓は完全になくなった?
A5:完全になくなったわけではない。戸籍上では従来の姓と本貫が記載される欄が残されていた。しかし、氏名の法的な扱いが変更され、従来の姓が本来持っていた血統上の意味と戸籍上の氏の役割が分けられた。

Q6:1945年の解放後、すぐに元の姓名へ戻った?
A6:社会生活では解放後に朝鮮名を使用する動きが広がったが、戸籍の法的な整理には時間を要した。朝鮮半島南部では1946年10月23日に米軍政庁が朝鮮姓名復旧令を公布し、法的な復旧手続きを整えた。

Q7:創氏改名を詳しく研究するには何を読めばよい?
A7:日本語の研究書では、水野直樹『創氏改名 日本の朝鮮支配の中で』(岩波新書)が代表的な参考文献となる。加えて、宮田節子・金英達・梁泰昊の研究や、朝鮮総督府官報、韓国国史編纂委員会の歴史資料を組み合わせると、制度と実態の両方を把握しやすい。

【プロの結論】創氏改名の本質は姓名変更ではなく植民地統治による制度の再編だった

創氏改名を理解するうえで、最も重要なのは「日本風の名前に変えた政策」という一面的な説明から離れることだ。

1939年の朝鮮民事令改正によって導入されたのは、日本の家制度に基づく氏を朝鮮人の戸籍に組み込む制度だった。制令第19号によって氏の設定が義務化され、制令第20号によって氏名変更の条件が定められた。個人の名の変更は法的には任意だったものの、行政や学校、職場を通じた圧力によって、実際には拒否しにくい環境が形成されていた。

また、1940年8月10日の届出率約79.3%という数字は、制度の浸透度を示す一方、個々人の意思や日本風の改名率を直接表すものではない。法定創氏によって未届出の人々も制度に組み込まれたという仕組みを理解することが不可欠である。

加えて、内鮮一体という同化理念を掲げながら、日本人と朝鮮人の区別や差別を維持しようとした矛盾も見逃せない。創氏改名は、同化と差異化が同時に進められた植民地統治の特徴を示す政策だった。

2026年にこの歴史を読み直す際には、法令の文言、行政による実施状況、朝鮮人社会の反応、戦後の姓名復旧という4つの側面を合わせて考えることが大切だ。名前は個人を識別する記号であると同時に、家族、祖先、文化、民族的な帰属意識とも結び付いている。

創氏改名の歴史が伝えているのは、国家が戸籍や法律を通じて人々の名前を変更できたとしても、それだけで個人の記憶や社会の文化的なアイデンティティまで自由に変えられるわけではないという事実である。

その制度がどのように成立し、どのように運用され、何を残したのか。一次史料と研究成果を照らし合わせながら検証することが、植民地期の歴史を正確に理解するための出発点となる。


主な参考資料・研究文献

  • 朝鮮総督府官報第3843号(1939年11月10日)制令第19号・第20号
  • 朝鮮総督府令第219号(1939年12月26日)
  • 韓国国史編纂委員会『新編韓国史』第50巻「戦時体制と民族運動」
  • 韓国国史編纂委員会「韓国史年代記・創氏改名」
  • 水野直樹『創氏改名 日本の朝鮮支配の中で』岩波新書、2008年
  • 宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』明石書店、1992年
  • 坂元真一「『創氏改名』が残した課題」『法社会学』第57号、2002年
  • 青野正明「朝鮮総督府の『創氏』構想―1920年代を中心に―」2002年
  • 軍政庁法令第122号「朝鮮姓名復旧令」(1946年10月23日)

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天音 栞

アイドルグループとアーティストの動向を追うライター。公式サイト・公式SNS・音楽配信のクレジットを照合し、卒業や加入などの発表は必ず一次情報の日付とともに記録します。

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