高橋一三(たかはし・かずみ)氏は、読売ジャイアンツのV9時代を支えた伝説的な左腕投手です。1969年に22勝、1973年には23勝を挙げ、沢村賞を2度受賞。右の堀内恒夫氏と並ぶ巨人の投手陣の柱として、1965年から1973年まで続いた日本シリーズ9連覇に大きく貢献しました。
1975年オフには張本勲氏との大型交換トレードで日本ハムへ移籍し、1981年には14勝を挙げてチームのリーグ優勝を支えています。現役19年間の通算成績は167勝132敗12セーブ、防御率3.18。引退後は指導者としても活動し、山梨学院大学硬式野球部の監督も務めました。2015年7月14日、多臓器不全のため69歳で亡くなっています。
また、アニメ『巨人の星』の主人公・星飛雄馬の投球フォームのモデルになった人物としても知られています。妻は元映画女優の橘和子さんです。2026年現在も語り継がれる高橋氏の野球人生を、NPB公式記録や当時の報道、球界関係者の証言から振り返ります。
【高橋一三の読み方とプロフィール】巨人V9を支えた伝説の左腕とは?

高橋一三の読み方は「たかはし・かずみ」です。「一三」という名前は「いちぞう」などと読まれることもありますが、NPB(日本野球機構)の公式選手データにも「たかはし・かずみ」と登録されています。
広島県出身で、北川工業高校(現在の広島県立府中東高校)から1965年に読売ジャイアンツへ入団しました。左投左打の投手で、現役時代の身長は178センチ、体重は78キロ。真上から投げ下ろす力強い速球と、大きな落差を生むカーブを武器としていました。
基本プロフィール
- 名前:高橋一三(たかはし・かずみ)
- 生年月日:1946年6月9日
- 出身地:広島県
- 投打:左投左打
- 身長・体重:178センチ・78キロ
- 出身高校:北川工業高校(現・府中東高校)
- プロ入り:1965年、読売ジャイアンツ
- 所属球団:読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ
- 現役引退:1983年
- 主な表彰:沢村賞2回、最優秀投手2回、ベストナイン2回
高橋氏の最大の特徴は、単純な球速だけに頼らない投球スタイルです。真上から投げ下ろすフォームによって打者に強い角度を感じさせ、落差の大きな変化球を組み合わせて打ち取る技術を磨きました。
とりわけ右打者に対するスクリューボールを使った投球術は、後年の左投手にも通じるものとして評価されています。週刊ベースボールの追悼記事では、王貞治氏が高橋氏を、右打者をスクリューで攻める現代の左投手の原型をつくった存在として評価したことも紹介されました。
単なるV9時代の一選手ではなく、左腕投手の投球技術という面でも記憶されるべき人物です。
【1969年22勝・1973年23勝】沢村賞2度の実力と巨人V9への貢献
高橋一三氏の全盛期を語るうえで欠かせないのが、1969年と1973年の2シーズンです。この2年間はいずれも20勝を超え、沢村賞を獲得しました。
1969年は22勝5敗、防御率2.21で最多勝を獲得
1969年、高橋氏は45試合に登板して22勝5敗、勝率.815、防御率2.21という圧倒的な成績を残しました。
投球回数は256イニング、奪三振は221。完投数も19試合に達しています。単に勝ち星を積み上げただけではなく、先発投手として長いイニングを投げ、試合を最後まで任される能力を備えていたことが分かります。
この年は最多勝と最高勝率のタイトルを獲得し、初めて沢村賞にも選ばれました。巨人のV9時代における左のエースとして、その名が広く知られるようになったシーズンです。
1973年は23勝13敗、238奪三振で再び沢村賞
さらに注目したいのが1973年です。この年の高橋氏は45試合に登板し、23勝13敗、防御率2.21を記録しました。
投球回数は306回1/3、奪三振は238。完投数は24試合に及び、リーグ最多奪三振のタイトルも獲得しています。
1969年とは異なる形で投手としての完成度を示し、2度目の沢村賞を受賞しました。この1973年は巨人が日本シリーズ9連覇を達成した年でもあります。
堀内恒夫との左右のダブルエースがV9を支えた
当時の巨人投手陣を語るとき、高橋氏とともに名前が挙がるのが堀内恒夫氏です。
堀内氏が右投手、高橋氏が左投手という組み合わせで、両者はV9後期の投手陣をけん引しました。右打者、左打者への攻め方や球種の違いも含め、左右のエースがそれぞれの持ち味を発揮できる体制は、長期的なチームの強さにつながりました。
週刊ベースボールの追悼記事では、堀内氏と高橋氏の親しい関係にも触れられています。野球の実力だけでなく、気心の知れた関係だったことも、当時の投手陣を語るエピソードの一つです。
V9は王貞治氏や長嶋茂雄氏の打撃だけで達成された記録ではありません。高橋氏と堀内氏のような先発投手が安定して勝利を重ねたことが、巨人の黄金時代を下支えしていました。
【通算167勝の実績と人物相関】高橋一三の経歴・関係者を整理
高橋一三氏の通算成績は、NPB公式の個人年度別成績で確認できます。1965年から1983年までの19年間にわたり、巨人と日本ハムの2球団でプレーしました。
NPB公式記録で見る通算成績
最終的な記録は167勝132敗12セーブ、防御率3.18、1997奪三振です。595試合に登板し、2778イニングを投げています。
- 通算登板:595試合
- 通算勝利:167勝
- 通算敗戦:132敗
- 通算セーブ:12
- 通算投球回:2778イニング
- 通算奪三振:1997
- 通算防御率:3.18
- 通算勝率:.559
- 通算完投:128試合
167勝という数字は、巨人時代の活躍だけでなく、日本ハム移籍後も長く一線で投げ続けた結果です。特に1981年には14勝を挙げ、移籍先で再び優勝を経験しました。
高橋一三を取り巻く主要人物・組織の関係
| 人物・組織 | 高橋一三との関係 | 主な接点・確認できる事実 |
|---|---|---|
| 堀内恒夫 | 巨人時代の同僚・右のエース | 左右の投手の両輪としてV9を支えた。親交も深かった。 |
| 張本勲 | トレードの交換相手 | 1975年オフの1対2の交換トレードで巨人へ移籍した。 |
| 富田勝 | トレードの同時移籍選手 | 高橋氏とともに日本ハムへ移籍した。 |
| 王貞治 | 巨人時代のチームメート | 高橋氏のスクリューを使った投球術を高く評価したと報じられている。 |
| 橘和子 | 妻 | 元映画女優。高橋氏の夫人として報道で紹介されている。 |
| 星飛雄馬 | アニメ版の投球フォームのモデル | 『巨人の星』の主人公の投球フォームに高橋氏のフォームが採用されたとされる。 |
| 山梨学院大学 | 引退後の指導者としての活動先 | 2009年4月から2014年4月まで硬式野球部監督を務めた。 |
この関係図からも分かるように、高橋氏の野球人生は巨人時代だけで完結していません。張本氏とのトレード、日本ハムでの再起、堀内氏との友情、そして大学野球の指導と、複数の時代にまたがって球界に足跡を残しました。
【張本勲とのトレードの真相】なぜ高橋一三は日本ハムへ移籍したのか?
高橋一三氏のキャリアで大きな転換点となったのが、1975年オフの張本勲氏との交換トレードです。
1975年11月25日に発表されたこのトレードは、日本ハムの張本氏と、巨人の高橋氏・富田勝氏による1対2の大型交換トレードでした。
長嶋巨人が必要としていたのは強力な打者だった
背景には、長嶋茂雄監督の就任1年目だった1975年の巨人の低迷があります。
この年の巨人は球団史上初の最下位に沈み、翌シーズンに向けて打線の立て直しが急務となっていました。長嶋監督が補強の目玉として求めたのが、当時パ・リーグを代表する強打者だった張本氏です。
一方、日本ハム側では親会社の変更や球団の再編成が進み、チームづくりの方向性が変わっていました。張本氏自身も移籍を希望していたことが、週刊ベースボールの当事者インタビューで紹介されています。
こうした双方の事情が重なり、張本氏を巨人へ送り出す代わりに、高橋氏と富田氏を日本ハムへ移す大型トレードが成立しました。
巨人での不振から日本ハムで再起
高橋氏は移籍直前の1974年に2勝11敗、防御率5.13と苦しみました。1975年も6勝にとどまっており、1969年や1973年の全盛期と比べると成績が落ち込んでいた時期でした。
しかし、日本ハム移籍後に投球スタイルを変化させながら再起します。1976年には10勝を記録し、新天地で先発投手としての役割を果たしました。
そして1981年には14勝6敗、防御率2.94を記録。日本ハムのパ・リーグ優勝に大きく貢献しました。
巨人での黄金時代を終えた後も、別の球団で優勝に貢献したことは、高橋氏の投手としての息の長さを示しています。
このトレードは、巨人にとっては張本氏の獲得、日本ハムにとっては投手力の補強という双方の狙いがありました。高橋氏にとっても、キャリアの終盤にもう一度優勝を経験する重要な転機となったのです。
【星飛雄馬のモデル説と妻・橘和子】高橋一三の知られざる人物像
星飛雄馬のモデルになったのは本当?
高橋一三氏には、野球ファン以外にも知られる意外なエピソードがあります。それが、人気野球作品『巨人の星』の主人公・星飛雄馬との関係です。
日刊スポーツの2015年の略歴記事では、高橋氏のダイナミックな投球フォームが星飛雄馬のモデルになったと紹介されています。
ただし、この話を理解するときに大切なのは、モデルになったとされる対象が投球フォームであるという点です。星飛雄馬という人物の生い立ちや物語全体が高橋氏の実人生を描いたもの、という意味ではありません。
高橋氏の特徴は、真上から投げ下ろすフォームと大きな腕の振りです。映像作品で表現される力強い投球動作と結びついたことで、現実の名投手とアニメの主人公をつなぐエピソードとして語り継がれるようになりました。
堀内恒夫との関係は?
堀内恒夫氏は高橋氏より1学年下で、巨人のV9時代に投手陣を支えた右腕です。
当時は「右の堀内、左の高橋」と並び称され、左右のエースとしてチームをけん引しました。週刊ベースボールの追悼記事では、堀内氏が高橋氏との親しい関係を振り返ったエピソードも紹介されています。
単なるチームメートという関係を超え、互いに信頼を寄せる存在だったことが伝わります。巨人のV9を語る際に両者の名前がセットで登場するのは、成績面と人間関係の両方に理由があるのです。
妻は元映画女優の橘和子さん
高橋一三氏の妻は、元映画女優の橘和子さんです。日刊スポーツの略歴記事でも夫人として紹介されています。
橘さんは映画や芸能活動に携わった経歴を持つ人物で、結婚後は高橋氏の妻として知られています。
一方、夫婦の詳しい私生活や家族の具体的な構成については、広く確認できる公的な情報が限られています。野球選手としての高橋氏の記録と、家族のプライベートに関する情報は分けて理解する必要があります。
【山梨学院大学監督から2015年の逝去へ】高橋一三の晩年と死因
引退後は巨人・日本ハムの指導者として活動
1983年に現役を引退した高橋氏は、その後も野球界に残りました。
巨人と日本ハムで投手コーチを務め、巨人では2軍監督なども歴任。長年のプロ経験を生かして、若手選手の育成や投手陣の指導に携わりました。
プロ野球で19年間プレーした経験は、単に技術を教えるだけでなく、シーズンを通じた調整や試合への向き合い方を伝えるうえでも大きな財産だったはずです。
2009年に山梨学院大学硬式野球部の監督へ
2009年4月、高橋氏は山梨学院大学硬式野球部の監督に就任しました。
山梨学院大学の広報資料によると、就任にあたっては大学側から監督就任の要請があり、元プロ野球関係者が大学野球部の監督を務めるための資格認定を受けたうえで指導を開始しています。
就任時には関甲新学生野球リーグで優勝争いに加わり、大学選手権出場を目指す意向を示していました。
しかし、体調不良により2014年4月に監督を退任。プロ野球の第一線から大学野球の育成現場へと活動の場を移した後、健康上の理由で指導者生活にも区切りをつけることになりました。
死因は多臓器不全。2015年7月14日に69歳で逝去
高橋一三氏は、2015年7月14日午後4時59分、東京都内の病院で亡くなりました。享年69歳でした。
当初の報道では死因が不明とされていましたが、翌15日に読売ジャイアンツが発表した内容では、死因は多臓器不全とされています。
一部の初期報道では心臓の状態に関する関係者の話も伝えられましたが、球団発表で公表された死因は多臓器不全です。この点は、異なる時点の報道を混同しないためにも押さえておきたいところです。
山梨学院大学の監督を退任した後は療養生活を送っていたことも、当時の日刊スポーツで報じられました。
V9巨人の左のエースとして活躍し、日本ハムでも優勝に貢献した投手の訃報は、当時の球界に大きな衝撃を与えました。
2026年現在、高橋氏はすでに故人ですが、NPB公式記録に残る167勝や2度の沢村賞、そして後進への指導という功績は失われていません。
【高橋一三に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:高橋一三の読み方は何ですか?
A1:たかはし・かずみです。NPB公式プロフィールにも「たかはし・かずみ」と記載されています。
Q2:高橋一三の通算成績と沢村賞の受賞回数は?
A2:通算595試合に登板し、167勝132敗12セーブ、防御率3.18、1997奪三振を記録しました。沢村賞は1969年と1973年の2回受賞しています。
Q3:高橋一三の死因は何ですか?
A3:2015年7月14日に69歳で亡くなりました。翌15日に読売ジャイアンツが発表した死因は多臓器不全です。
Q4:高橋一三はなぜ日本ハムに移籍したのですか?
A4:1975年オフ、張本勲氏を巨人へ移籍させるための1対2の交換トレードが成立し、高橋氏と富田勝氏が日本ハムへ移りました。巨人は長嶋茂雄監督の就任初年度に最下位となり、打線の強化を必要としていました。
Q5:高橋一三は星飛雄馬のモデルだったのですか?
A5:アニメ版『巨人の星』の星飛雄馬の投球フォームのモデルになったと報道されています。キャラクターの人物設定そのものではなく、力強い投球フォームとの関係が知られています。
Q6:高橋一三の妻は誰ですか?
A6:妻は元映画女優の橘和子さんです。日刊スポーツの略歴記事でも夫人として紹介されています。
まとめ:高橋一三の167勝と巨人V9の功績は今も色あせない
高橋一三氏は、巨人V9時代を代表する左腕投手であり、1969年の22勝、1973年の23勝という圧倒的な実績を残した名選手です。沢村賞2度、通算167勝という数字は、その実力を端的に物語っています。
堀内恒夫氏との左右のエース体制で巨人の黄金時代を支えた一方、1975年の張本勲氏との交換トレードを経て日本ハムでも活躍。1981年には14勝を挙げ、移籍先で再びリーグ優勝を経験しました。
引退後はプロ野球の指導者として活動し、山梨学院大学硬式野球部の監督も務めました。2015年に69歳で亡くなりましたが、星飛雄馬の投球フォームのモデルとして知られるエピソードも含め、その存在は野球ファン以外にも記憶されています。
高橋一三という投手を評価するとき、1969年と1973年の勝利数だけに注目するのでは十分ではありません。巨人V9を支え、日本ハムで再び優勝に貢献し、引退後は指導者として野球界に携わった19年間の歩み全体にこそ、その真価があります。
NPB公式記録に残された167勝と1997奪三振。そして堀内恒夫氏らと築いた巨人の黄金時代。高橋一三氏は、昭和プロ野球の歴史を語るうえで欠かせない名左腕の一人です。
主な確認資料:日本野球機構(NPB)個人年度別成績、読売ジャイアンツの訃報発表を伝えた日刊スポーツ、週刊ベースボールONLINE、山梨学院大学の広報資料。