把瑠都の引退理由として最も大きかったのは、長年苦しんだ膝の故障だった。
大関まで昇進し、幕内優勝も経験した力士が、なぜ28歳という若さで土俵を去ることになったのか。その経緯を理解するには、2012年から2013年にかけての負傷と成績の変化を見る必要がある。
1.2012年に2場所連続負け越しで大関陥落
2012年秋場所と九州場所で、把瑠都は相次ぐ負傷に苦しんだ。
日刊スポーツの当時の報道によると、秋場所では右足親指の剥離骨折、九州場所では左太もも裏の肉離れを負い、いずれも途中休場となった。
大関は2場所連続で負け越すと、その地位から陥落する。把瑠都もこの規定によって大関の座を失った。
つまり、2012年の大関陥落は、単純な実力不足ではなく、負傷による休場と成績不振が重なった結果だった。
2.2013年5月場所で左膝を重傷
さらに大きな転機となったのが、2013年夏場所だった。
7日目の稀勢の里戦で寄り倒された際、以前から問題を抱えていた左膝を悪化させた。
診断は、前十字靱帯および半月板の損傷。
その後の名古屋場所は全休。秋場所では東十両3枚目まで番付を落としていた。
大関経験者として再び幕内を目指す道も残されていたが、膝の状態は厳しく、通常の稽古や本格的な取組に戻ることが難しい状況だった。
3.2013年9月11日に現役引退
2013年9月11日、把瑠都は日本相撲協会に引退届を提出した。
同日の引退会見では、左膝の状態について次のように説明している。
悲しいけど、ケガが治らずに、土俵の上に立つことができません。
日刊スポーツによる会見報道では、本人が手術の可能性にも触れていたことが伝えられている。
また、横綱昇進の可能性があった時期を振り返り、自分自身の相撲への向き合い方についても率直に語っていた。
親方として角界に残るための年寄名跡を取得していなかったこともあり、現役引退とともに相撲界を離れることになった。
引退理由についての重要な整理
- 大関陥落:2012年の2場所連続負け越し。
- 2013年の決定的な負傷:左膝の前十字靱帯・半月板損傷。
- 引退決断:2013年9月11日。
- 引退時の年齢:28歳。
把瑠都は幕内優勝を経験した後に引退している。成績が急激に落ちたというより、度重なる故障によって本来の力を発揮できなくなったことが、競技人生を終える大きな要因だった。
【引退後の活動】RIZIN参戦からエストニア国会議員、実業家へ

把瑠都は引退後、すぐに一つの職業に落ち着いたわけではない。
格闘技、芸能活動、政治、そして実業と、複数の分野に挑戦してきた。
1.2015年に総合格闘技RIZINへ参戦
相撲界を離れた後も、格闘技への情熱は残っていた。
2015年10月、把瑠都の総合格闘技イベント「RIZIN」への参戦が発表された。
日刊スポーツの報道によると、本人は子どもの頃から格闘技に挑戦したい気持ちがあったと説明している。
相撲で培った体格とパワーを生かし、新しい競技の舞台に進んだ形だ。
2.タレント・俳優として日本のテレビにも出演
把瑠都は日本でタレントや俳優としても活動した。
2018年にはNHKドラマ『弟の夫』に出演。J-WAVEのインタビューでも、元大関としての経歴だけでなく、エストニアでの暮らしや日本での経験について語っている。
現役時代に培った知名度や親しみやすいキャラクターを生かし、スポーツ以外の分野でも活動の幅を広げた。
3.2019年からエストニアの国会議員に
引退後の経歴で特に意外性があるのが、母国エストニアでの政治活動だ。
2019年、把瑠都はカイド・ホーヴェルソンの本名でエストニアの国会議員となった。
エストニアの国会はリーギコグ(Riigikogu)と呼ばれる。公式議員プロフィールには、彼が第14期国会の議員として活動し、国家予算管理特別委員会の副委員長も務めたことが記録されている。
任期は2023年4月1日まで。現在も国会議員を続けているわけではない。
2025年4月2日には、在エストニア日本国大使館がカイド・ホーヴェルソン元国会議員との意見交換を公表した。
同大使館は、角界引退後に国会議員として活躍したことに加え、エストニアやヨーロッパでの相撲普及に尽力し、日本とのつながりを大切にしている人物として紹介している。
4.政治活動を経て実業家として新しい道へ
政治活動を経験した後、2026年5月の報道で明らかになったのが、輸入会社の経営を中心とする現在の仕事だ。
ここで注目したいのは、把瑠都の活動が相撲から完全に切り離されたわけではないこと。
- 格闘技では、身体能力を生かした競技経験。
- 政治では、日本とエストニアの関係に関わる活動。
- 実業では、両国をつなぐ輸入事業。
- スポーツ普及では、子どもたちへの相撲指導。
それぞれの活動に共通しているのは、日本で身につけた経験を母国でも活用している点だ。
【プロの結論】把瑠都の引退後が示す、元大関ならではの第二の人生
把瑠都のキャリアを振り返ると、相撲界での成功と引退後の活動には、一つの共通点が見えてくる。
それは、自分が持つ強みを別の環境に合わせて活用していることだ。
現役時代の強みは、198cmの体格と圧倒的なパワーだった。しかし、引退後はその身体能力だけに依存していない。
日本で培った知名度、言語や文化への理解、エストニアとの人的なつながり、相撲を通じて得た国際的な経験。こうした資産を輸入事業や観光、スポーツ普及に結びつけている。
把瑠都のキャリアから読み取れる3つのポイント
1.競技生活の終わりは、社会人としての終わりではない
28歳での引退は、力士として考えれば早い決断だった。しかし、その後に格闘技、芸能、政治、実業と新しい分野に挑戦している。
2.母国と日本の両方に関係を持つことが強みになった
日本で相撲を経験し、母国エストニアでも知名度を持つ。二つの国を理解する立場だからこそ、輸入事業や国際交流に取り組む意味が生まれている。
3.相撲を次世代へ伝える活動も続いている
約120人の子どもたちを抱える道場は、元大関としての経験を次の世代へ引き継ぐ場でもある。
把瑠都の現在を評価する際には、会社経営だけでなく、こうしたスポーツ普及や国際交流も含めて見る必要がある。
【把瑠都凱斗の現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:把瑠都は2026年現在、何をしている?
A1:2026年5月の報道によると、輸入会社を経営している。加えて、母国エストニアでホテルを経営し、自身の相撲道場で子どもたちに相撲を教えている。道場の生徒は約120人と紹介された。
Q2:把瑠都の本名と出身地は?
A2:本名はカイド・ホーヴェルソン。1984年11月5日生まれで、出身地はエストニアのラクヴェレ。日本相撲協会の公式プロフィールにも記載されている。
Q3:把瑠都はなぜ大関から陥落した?
A3:2012年秋場所と九州場所で、故障による途中休場などが重なり、2場所連続の負け越しとなったため。大関陥落後も左膝の状態が悪化し、2013年9月に引退した。
Q4:把瑠都は何年に幕内優勝した?
A4:2012年1月場所。14勝1敗の成績で幕内最高優勝を達成した。エストニア出身力士として初めての幕内優勝だった。
Q5:把瑠都は現在もエストニアの国会議員?
A5:現在は国会議員ではない。エストニア国会の公式記録では、議員としての任期は2023年4月1日までとなっている。2025年には在エストニア日本国大使館が元国会議員として紹介している。
Q6:把瑠都の相撲道場には何人の生徒がいる?
A6:2026年5月のテレビ番組で、本人が約120人と説明している。子どもたちへの相撲指導を通じて、エストニアで競技の普及にも取り組んでいる。
まとめ:把瑠都凱斗は相撲引退後も日本とエストニアをつないでいる
把瑠都凱斗は、2010年の大関昇進、2012年初場所の幕内初優勝という輝かしい実績を残した元力士だ。
一方、度重なる負傷、特に左膝の前十字靱帯と半月板の損傷によって、2013年9月に28歳で現役を引退した。
その後の歩みは、格闘技への挑戦、芸能活動、エストニアの国会議員、そして実業家と多彩だ。
2026年5月の報道で明らかになった現在の主な活動は、次の3つである。
- 日本と海外を結ぶ輸入会社の経営
- エストニアでのホテル経営
- 約120人の子どもたちが学ぶ相撲道場の運営
特に興味深いのは、現役時代に築いた日本とのつながりを、引退後も事業やスポーツ普及に生かしていることだ。
土俵の上で横綱を目指した元大関は、現在、別の形で日本とエストニアの架け橋となっている。把瑠都の第二の人生は、トップアスリートが競技引退後にどのような可能性を切り開けるのかを示す、一つの興味深い事例といえる。