2026年現在も、日本プロ野球史に残る究極の名場面として語り継がれている「江夏の21球」。その舞台は、1979年11月4日、大阪球場で行われた広島東洋カープ対近鉄バファローズの日本シリーズ第7戦だった。球団初の日本一を懸けた最終決戦で、広島の守護神・江夏豊は9回裏、無死満塁という絶体絶命のピンチを迎える。
代打・佐々木恭介を空振り三振に仕留め、続く石渡茂のスクイズを阻止。最後も石渡を三振に打ち取り、広島を球団初の日本一へ導いた。この劇的な21球には、捕手・水沼四郎の洞察、西本幸雄監督の作戦、古葉竹識監督の采配、衣笠祥雄の言葉など、スコアだけでは分からない人間ドラマが隠されている。
【試合の全体像】江夏の21球が生まれた1979年日本シリーズ第7戦とは?

広島と近鉄、どちらが勝っても初の日本一
1979年の日本シリーズは、広島東洋カープと近鉄バファローズの対戦だった。両チームは第6戦までに3勝ずつを挙げ、勝負は最終第7戦へ持ち込まれた。
近鉄は球団創設以来初の日本シリーズ進出。広島も日本シリーズ初制覇を目指しており、両チームにとって歴史的な意味を持つ試合だった。
11月4日、大阪球場で午後1時に始まった第7戦は、広島が先行する展開となる。近鉄は5回裏に平野光泰の2点本塁打で同点に追いついたが、6回表に広島の水沼四郎が2点本塁打を放ち、再びリードを奪った。
近鉄もその裏に1点を返したものの、試合は広島4-3近鉄のまま終盤へ進む。
広島の古葉竹識監督は7回裏2死から江夏豊を投入。江夏は8回も無失点に抑え、1点リードを守って最終回を迎えた。
9回裏、突然訪れた無死満塁の危機
先頭打者の羽田耕一が、江夏の初球をセンター前へ運ぶ。近鉄は代走に俊足の藤瀬史朗を起用した。
続くアーノルドの打席で藤瀬が盗塁を試みる。捕手・水沼の送球が悪送球となり、藤瀬は一気に三塁まで進んだ。
アーノルドも四球で出塁。代走の吹石徳一が入り、続く平野光泰の打席で二盗を成功させる。
広島バッテリーは平野を敬遠し、満塁策を選択した。こうして、江夏は無死満塁、一打逆転サヨナラという最悪の状況に追い込まれた。
NPBの公式試合記録によると、この試合は広島が4対3で勝利。入場者数は2万4,376人、試合時間は3時間29分だった。
【全21球を時系列で解説】佐々木恭介の三振から石渡茂のスクイズ失敗まで
江夏の21球を理解するには、単に最後のスクイズ場面だけを見るのでは不十分だ。最初の打者・羽田から、満塁を招いた走者の動き、佐々木との心理戦までを連続して追う必要がある。
第1球~第6球:羽田の安打とアーノルドへの四球
第1球・羽田耕一:江夏が投じた初球を羽田がセンター前へ運び、出塁する。近鉄は代走に藤瀬史朗を送った。
第2球~第4球・アーノルド:江夏はアーノルドとの対戦を開始。外角へのボール球などを交え、3球を終えた段階で2ボール1ストライクとなった。
第5球・アーノルド:4球目の投球で藤瀬が二盗を敢行。水沼の送球がワンバウンドとなり、高橋慶彦が捕球できず、藤瀬は三塁へ進む。カウントは3ボール1ストライクとなった。
第6球・アーノルド:江夏は勝負を避け、四球を与える。代走・吹石徳一が一塁に入った。
第7球~第11球:吹石の盗塁と満塁策
第7球・第8球:平野光泰との対戦が始まる。カウントは1ボール1ストライクとなった。
第9球:一塁走者の吹石が二盗を敢行。三塁に藤瀬がいるため、水沼は二塁へ送球できず、近鉄は無死二、三塁とする。
第10球・第11球:広島は平野を敬遠する方針を取り、四球で歩かせる。これで近鉄は無死満塁となった。
この段階で江夏が投じた球数は11球。あと1点で同点、安打が出れば逆転サヨナラという状況である。
第12球~第17球:代打・佐々木恭介との6球
近鉄の西本幸雄監督が送り出したのは、代打の佐々木恭介だった。佐々木は前年の首位打者で、勝負強さを持つ打者として知られていた。
第12球は内角低めを狙ったカーブが外れてボール。第13球は速球を見逃してストライクとなる。
第14球、佐々木は三塁線へ鋭い打球を放つ。三塁手・三村敏之が反応したものの、打球はファウルとなった。
第15球もファウル。江夏は簡単に勝負を決めさせてもらえない。
第16球は内角低めの速球が外れてボール。最後の第17球、江夏は前の速球と似た軌道から内角低めへ曲がり落ちるカーブを投げ込んだ。
佐々木のバットは空を切る。空振り三振で1アウト。
この6球については、野村克也も後年、勝負の分岐点として注目した。野村は、佐々木が2球目のストライクを見逃したことや、ファウルで追い込まれた後の江夏の配球に意味があったと分析している。
第18球~第21球:石渡茂のスクイズと最後の三振
1死満塁で打席に立ったのは石渡茂。近鉄はここで勝負を懸ける。
第18球:江夏はカーブを投げ、石渡は見逃す。ストライクとなった。
第19球:三塁走者の藤瀬がスタートを切る。石渡もバントの構えに入った。スクイズだ。
江夏は投球動作の途中で異変を察知し、カーブの握りのまま外角高めへ投球。石渡のバットは空を切り、水沼のミットにボールが収まった。
飛び出した藤瀬は本塁へ到達できず、捕手・水沼にタッチされてアウト。これで2死二、三塁となった。
第20球:石渡は直球をファウルにする。
第21球:江夏は最後に内角低めへカーブを投げ込む。石渡のバットが空を切り、空振り三振。試合終了となった。
広島が4対3で勝利し、球団創設30年目にして初の日本一を達成した。
21球の流れを一目で整理
- 1球目:羽田がセンター前ヒット。
- 2~6球目:アーノルドに四球。藤瀬は盗塁と悪送球で三塁へ。
- 7~11球目:平野を敬遠。吹石の盗塁もあり無死満塁。
- 12~17球目:佐々木恭介を空振り三振。
- 18球目:石渡茂がカーブを見逃してストライク。
- 19球目:カーブの握りからのウエストでスクイズを阻止。藤瀬がタッチアウト。
- 20球目:石渡が直球をファウル。
- 21球目:内角低めのカーブで石渡を空振り三振。
なお、21球とは9回裏の投球数であり、江夏がこの試合で投げた総投球数ではない。NPB公式記録では、江夏の試合全体の投球数は41球。9回裏の21球だけを切り取った呼び名である。
【スクイズ失敗の真相】江夏豊と水沼四郎は何を見抜いていたのか?
石渡茂が証言したスクイズの瞬間
江夏の21球で最も有名なのは、やはり19球目だろう。1死満塁でのスクイズを外し、三塁走者をアウトにした場面である。
日刊スポーツが2019年に掲載した石渡茂本人へのインタビューでは、当時の状況が詳しく語られている。
石渡は打席に入る前、西本監督からスクイズの可能性を伝えられていた。そして第18球目を見逃した後、ベンチからスクイズのサインが出たという。
石渡の記憶では、投球は通常のカーブに見えた。直球で大きく外されるという想定とは異なり、バットを出したもののタイミングが合わなかった。
石渡茂は当時の投球について、通常のカーブのように感じたと振り返っている。
つまり、石渡はウエストを完全に予測していたわけではなかった。投球の軌道とバントのタイミングが合わず、結果としてスクイズが失敗したのである。
捕手・水沼四郎がスクイズを察知した理由
この場面には、もう一人の重要人物がいる。捕手の水沼四郎だ。
水沼は石渡と中央大学時代の先輩・後輩の関係にあり、互いの性格や癖を知っていた。
スポーツジャーナリストの二宮清純が紹介した水沼の著書『江夏の21球をリードした男』によると、水沼は石渡が打席に入った際、普段と違う様子を感じ取っていたという。
水沼はスクイズの可能性を察知しながら、あえてタイムを取らず、近鉄側に作戦を悟られないようにしたと説明している。
さらに藤瀬のスタートが早かったことも重要だった。水沼は走者の動きを確認し、ウエストするために立ち上がった。
つまり、19球目は江夏だけの判断で成立したプレーではない。捕手が状況を読み、投手が反応し、走者の動きと打者のバントが交錯した結果だった。
江夏は計算して外したのか、それとも反射的な判断だったのか
ここには現在まで続く議論がある。
江夏本人の説明では、投球動作に入った瞬間、石渡のバットが動くのを見てスクイズを察知したという。カーブの握りを変えずに外すことができたのは、日頃からその動作を練習していたためだった。
一方、野村克也は捕手・水沼の立ち上がりと藤瀬の早すぎるスタートに注目した。野村の分析では、水沼が立ち上がったことを視界に捉えた江夏が、とっさに反応した可能性も高い。
石渡の証言では、投球は通常のカーブに見え、ウエストの指示があったとは感じていなかった。
これらの証言を重ねると、単純に「江夏が最初からスクイズを完全に読んでいた」とだけ説明することはできない。
江夏の観察力、水沼の洞察力、藤瀬のスタート、石渡の動作が一瞬のうちに結びついた。その複合的な判断こそ、19球目の本質だ。
【関係者・人物相関表】江夏の21球を生んだ9人の役割
この名勝負は江夏豊一人の活躍として紹介されることが多い。しかし、実際には両チームの選手、監督、捕手、さらには後世に伝えた作家や解説者が関わっている。
| 人物 | 当時の立場 | 江夏の21球との関係・重要な役割 |
|---|---|---|
| 江夏豊 | 広島投手 | 9回裏に21球を投じ、佐々木と石渡を三振に仕留めた。 |
| 水沼四郎 | 広島捕手 | 江夏とバッテリーを組み、スクイズの兆候を察知。19球目を捕球した。 |
| 石渡茂 | 近鉄内野手 | スクイズを試みた打者。最後は江夏のカーブで三振。 |
| 佐々木恭介 | 近鉄代打 | 無死満塁で登場し、江夏の6球目で空振り三振。 |
| 藤瀬史朗 | 近鉄代走 | 羽田の代走として出場。19球目のスクイズ失敗でタッチアウト。 |
| 古葉竹識 | 広島監督 | 江夏に最後の勝負を託し、ブルペンでは救援投手も準備させた。 |
| 西本幸雄 | 近鉄監督 | 佐々木を代打に送り、石渡にスクイズを指示した。 |
| 衣笠祥雄 | 広島内野手 | 江夏に声をかけ、精神的な動揺を落ち着かせた。 |
| 野村克也 | 野球解説者 | NHK特集などで分析し、捕手・水沼の視点からも名場面を検証した。 |
| 山際淳司 | ノンフィクション作家 | 一連の攻防を作品化し、スポーツノンフィクションの代表作として残した。 |
この中でも、特に見逃せないのが水沼と衣笠の存在だ。
水沼は技術面で江夏を支え、衣笠は精神面で江夏を支えた。投手と捕手の連携だけでなく、チームメート同士の信頼関係が、あの極限状態を乗り越える力になった。
【古葉竹識の采配と衣笠祥雄の言葉】知られざるベンチの緊張
ブルペンで池谷公二郎と北別府学が準備していた
江夏の21球を語る際、しばしば注目されるのが古葉竹識監督の采配である。
無死満塁となった場面で、広島ベンチは池谷公二郎と北別府学をブルペンで準備させていた。
江夏はこの光景を見て、自分への信頼が揺らいだと感じた。シーズンを通して抑えを任されてきた自分が、最後の大勝負で交代させられる可能性があると受け取ったのである。
ただし、古葉監督の意図は必ずしも江夏への不信ではなかった。
Number Webの当時の状況を検証した記事によれば、古葉監督は延長戦に入る可能性を考慮して救援投手を準備させていた。江夏に代打を送る必要が生じた場合など、次の展開に備えた采配だったという。
監督にとっては合理的な準備でも、江夏にとっては自分の役割を疑われたように感じられた。ここには、勝利を目指す指揮官と、最後のマウンドを任された投手の心理的なすれ違いがあった。
江夏を救った衣笠祥雄の一言
江夏の動揺を察知してマウンドへ歩み寄ったのが、チームメートの衣笠祥雄だった。
衣笠は江夏の気持ちを理解し、強い言葉で支えたと伝えられている。
「おまえがユニフォームを脱ぐなら、オレも辞めるぞ」
これはNumber Webが紹介した江夏と衣笠のやり取りである。
江夏はこの言葉によって、自分の気持ちを理解してくれる仲間がいると感じ、再び投球に集中できるようになったという。
2026年6月1日公開のweb Sportivaの江夏への取材記事でも、この場面が改めて取り上げられた。江夏自身が、衣笠の言葉によって気持ちを落ち着かせた経緯を語っている。
試合後、江夏は古葉監督との間にわだかまりを残し、翌年の開幕まで十分に話をしなかったという。2026年の回顧記事では、その後、古葉監督が江夏に謝罪した経緯も紹介されている。
江夏の21球は、単なる投球技術の勝利ではなかった。監督への反発、仲間への信頼、勝利への執念が交錯する人間ドラマでもあった。
【山際淳司の作品とNHK特集】なぜ江夏の21球は世代を超えて語り継がれるのか
1980年、Sports Graphic Number創刊号に掲載
江夏の21球を野球史だけでなく、日本のスポーツ文化に残る作品へと押し上げた人物が、作家の山際淳司である。
山際は1979年の試合を題材に、選手たちの心理、監督の判断、投球の意味を一球ずつ掘り下げたノンフィクションを執筆した。
作品は1980年の『Sports Graphic Number』創刊号に掲載され、大きな注目を集めた。
その後、1981年に刊行された『スローカーブを、もう一球』に収録され、第8回日本ノンフィクション賞を受賞している。国立国会図書館の書誌情報やKADOKAWAの著者・作品紹介でも、その経歴が確認できる。
この作品の革新性は、試合全体ではなく、わずか21球に焦点を絞ったことにある。
通常の野球記事なら、スコア、勝敗、決勝点、優勝チームを中心に構成される。しかし山際は、選手の心理や一瞬の判断にまで踏み込み、スポーツの勝負を人間の物語として描いた。
1983年のNHK特集が映像で名勝負を再現
加えて、この名場面を広く知らしめたのが、1983年放送のNHK特集「スポーツドキュメント 江夏の21球」だった。
NHKエンタープライズの公式作品情報によれば、番組は48分のドキュメンタリーで、江夏豊、古葉竹識、西本幸雄、水沼四郎、佐々木恭介、石渡茂ら当事者の証言を収録。野村克也が解説を務め、森本毅郎が語りを担当した。
番組では、9回裏の全21球を映像と証言によって分析。単なる試合の再放送ではなく、選手たちが何を考え、どのような判断を下したのかを掘り下げている。
この番組によって、江夏の21球は当時の野球ファンだけでなく、後の世代にも知られる存在となった。
2026年にも再検証される名場面
2026年6月には、web Sportivaが江夏本人の証言を中心とした特集を公開した。野村克也の分析、衣笠祥雄との関係、古葉監督との確執など、従来の名場面紹介では十分に扱われなかった背景にも光を当てている。
約半世紀が経過しても新たな証言や視点が加わるのは、この場面が単純な成功談ではないからだ。
広島側には勝利の歓喜があり、近鉄側には敗北の悔しさが残った。石渡はその後も野球人生を歩み、失敗を次世代の指導に生かしてきたことを日刊スポーツのインタビューで語っている。
勝者だけでなく、敗者の証言まで含めて物語が成立している。これが、江夏の21球が長く読み継がれる理由の一つである。
【プロの結論】江夏の21球が日本野球史に残した本当の価値
伝説の理由は3つの要素にある
江夏の21球が伝説となった理由は、大きく3つに整理できる。
第一に、状況の極限性。日本一が決まる第7戦の9回裏、無死満塁という、一つのミスが即座に敗北につながる状況だった。投手にかかる精神的負担は計り知れない。
第二に、投球と守備の高度な連携。佐々木への6球の配球、石渡のスクイズを察知した水沼の動き、江夏がカーブの握りのまま外した19球目。複数の判断が短時間に重なっていた。
第三に、人間ドラマと記録の継承。古葉監督とのすれ違い、衣笠の支え、石渡の悔しさ、山際淳司の作品化、NHKの映像化が重なり、試合の一場面が独立した物語として定着した。
よくある誤解も整理しておきたい
最初に、江夏が試合全体で21球しか投げていないという理解は誤りだ。実際の総投球数は41球であり、21球は9回裏だけの記録である。
また、スクイズを外したのは江夏一人の功績という説明も十分ではない。水沼の判断、藤瀬の走塁、石渡の動作が一体となったプレーだった。
加えて、江夏が最初からすべての作戦を完全に予測していたと断定するのも適切ではない。当事者の証言には視点の違いがあり、19球目がどこまで計算された動作だったのかについては、今も複数の解釈が残っている。
この名勝負を深く理解するなら、勝者側の映像だけでなく、石渡の回想、野村の分析、水沼の証言、山際のノンフィクションを合わせて読むことが重要だ。
野球の戦術や心理戦に関心がある人には、NHK特集や山際作品がおすすめだ。一方、実際の作戦の背景を知りたい人には、当事者インタビューや監督の証言まで追うと、試合の見え方が大きく変わる。
【江夏の21球】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:江夏の21球はいつ、どこで起きた?
A1:1979年11月4日、大阪球場で行われた広島東洋カープ対近鉄バファローズの日本シリーズ第7戦、9回裏に起きた。広島が4対3でリードしていた場面である。
Q2:江夏の21球で佐々木恭介はどうなった?
A2:無死満塁で代打として登場した佐々木は、江夏との6球の勝負の末、内角低めのカーブに空振り三振を喫した。これで1アウトとなった。
Q3:石渡茂のスクイズはなぜ失敗した?
A3:1死満塁で石渡がスクイズを試みた際、江夏がカーブの握りのまま外角へ投球したため、バットが届かなかった。飛び出した三塁走者の藤瀬も水沼にタッチされ、アウトとなった。
Q4:江夏の21球は試合全体の投球数?
A4:違う。江夏が9回裏に投じた21球を指す。試合全体では41球を投げている。
Q5:江夏の21球を映像で見る方法は?
A5:1983年放送のNHK特集「スポーツドキュメント 江夏の21球」が代表的な映像作品だ。NHKエンタープライズの公式情報では、48分のDVD作品として紹介されている。
Q6:山際淳司の『江夏の21球』はどの本に収録されている?
A6:1981年刊行の『スローカーブを、もう一球』に収録されている。2017年には『江夏の21球』を表題としたKADOKAWAの選集も刊行された。
まとめ:江夏の21球は一人の投手だけでは生まれなかった伝説
1979年11月4日の日本シリーズ第7戦。江夏豊が投じた21球は、広島東洋カープの球団初の日本一を決定づけた歴史的な投球だった。
無死満塁から佐々木恭介を三振に仕留め、石渡茂のスクイズを阻止し、最後も空振り三振で試合を締めくくる。その過程には、水沼四郎の洞察、衣笠祥雄の支え、古葉竹識と西本幸雄の采配があった。
そして、山際淳司のノンフィクションと1983年のNHK特集が、試合の記憶を一つの物語へと昇華させた。
2026年になっても新しい証言や分析が発表される江夏の21球。その価値は、単に21球でピンチを切り抜けたことだけにあるのではない。
極限状態での判断、仲間との信頼、勝負に懸ける執念、そして敗者の記憶まで含めた人間ドラマ。それらが一つのイニングに凝縮されていたからこそ、江夏の21球は約半世紀を経ても色あせない日本野球史の金字塔なのである。