2026年現在、日本のウイスキーづくりの歴史を語るうえで欠かせない人物が、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝(1894〜1979年)です。「日本のウイスキーの父」とも呼ばれる政孝は、若き日にスコットランドへ渡り、本場の製造技術を学びました。その経験をまとめた「竹鶴ノート」、スコットランド人女性リタとの国際結婚、鳥井信治郎との山崎蒸溜所での仕事を経て、1934年に大日本果汁株式会社を設立。1940年には念願の第一号ウイスキーを発売しました。
NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルとしても知られる竹鶴夫妻ですが、実際の人生にはドラマ以上に興味深い歴史があります。なぜ政孝は北海道の余市を選んだのか。鳥井信治郎とはどのような関係だったのか。そして、リタは夫の夢をどのように支えたのでしょうか。留学から晩年までの年表を軸に、史実に基づいて人物像と功績を詳しく解説します。
【人物像】竹鶴政孝とは何者?生い立ちとウイスキーに懸けた生涯

広島県竹原市の造り酒屋に生まれた少年時代
竹鶴政孝は1894年、広島県竹原町(現在の竹原市)に生まれました。実家は酒造業を営む竹鶴家で、政孝はその三男として育ちます。
幼い頃から酒蔵が身近にある環境で過ごし、父親の仕事を通じて酒造りの厳しさや職人の姿勢を学びました。後年、政孝は自身の酒造りへの原点について、次のように振り返っています。
「酒づくりのきびしさは、父を通して私の血や肉になった」
この言葉には、後に日本のウイスキー産業を切り開くことになる技術者としての原点が表れています。
旧制中学校では柔道部の主将を務め、その後、大阪高等工業学校(現在の大阪大学につながる教育機関)の醸造科に進学しました。
当時の日本では、日本酒や焼酎などの醸造・蒸溜技術が発展していましたが、スコットランドで造られるような本格的なウイスキーを国内で製造する技術は、まだ十分に確立されていませんでした。
政孝は日本酒だけでなく洋酒にも強い関心を抱き、1916年、卒業を前に摂津酒造へ入社します。そこで本格的な国産ウイスキーの製造計画に携わることになりました。
1918年、ウイスキーの本場スコットランドへ
人生を大きく変えたのが、1918年のスコットランド留学です。
摂津酒造は本格的な国産ウイスキーの製造を目指し、技術者として評価されていた政孝を現地へ派遣しました。
1918年12月、政孝はグラスゴー大学とロイヤル工科大学(現在のストラスクライド大学)で聴講生となり、化学の授業を受けながらウイスキー製造に関する専門書や文献を読み込みました。
ここで押さえておきたいのは、政孝がグラスゴー大学の正規課程を卒業したということではなく、聴講生として学んでいた点です。
彼の留学の目的は、大学で学問を修めることだけではありません。本場の蒸溜所で実際の製造工程を経験し、日本で再現できる技術を身につけることでした。
1919年4月にはスペイサイド地方のロングモーン蒸溜所で実習を開始。麦芽製造から発酵、蒸溜、貯蔵に至るまで、モルトウイスキー製造の一連の工程を学びました。
さらに同年7月には、エディンバラ近郊のボネスにあった工場で、カフェ式連続式蒸溜機によるグレーンウイスキーの製造も見学・体験しています。
その後、キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所でも実習し、モルトウイスキーの製法だけでなくブレンド技術も習得しました。
こうした経験は、後に山崎蒸溜所や余市蒸溜所で製造体制を構築する際の重要な土台になります。
【竹鶴ノート】日本のウイスキーの歴史を変えた2冊の実習記録
竹鶴ノートとは?単なる留学日記ではない
竹鶴政孝の留学を語るうえで欠かせない資料が、通称「竹鶴ノート」です。
これは政孝がスコットランドでの実習内容をまとめた、2冊のノートです。正式には「実習報告」と題され、製造工程や設備の構造、技術的な考察などが細かく記録されています。
注目すべきなのは、単に蒸溜所を見学した感想を記したものではないという点です。
ノートには、ポットスチルの原理や構造、蒸溜設備のイラスト、写真を交えた技術情報などが記されています。加えて、従業員の待遇や労働環境、酒税に関する内容まで含まれていました。
つまり、ウイスキーの製造方法だけでなく、蒸溜所を運営するための仕組みまで理解しようとしていたことが分かります。
現場での観察力と記録する姿勢
政孝の学習方法には、技術者としての徹底した姿勢が表れています。
たとえば、グレーンウイスキーの工場では、作業現場で自由にメモやスケッチを残せない場面がありました。そこで彼は、紙片と短い鉛筆をポケットに忍ばせ、手洗いに立つたびに必要な情報を書き留め、その日の夜に記憶をたどってノートへ整理したと、ニッカウヰスキーの創業者紹介で紹介されています。
こうした記録は、帰国後に日本で蒸溜設備を設計する際にも役立ちました。
特に、蒸溜釜を掃除した経験はポットスチルの製作に生かされ、設備の構造だけでなく、実際に使う職人の視点から製造工程を考える力につながりました。
竹鶴ノートが現在も評価される理由
竹鶴ノートの価値は、スコットランドの技術を日本へ持ち帰ったことだけではありません。
本場の製法を理解し、その技術を日本の気候や原料、設備事情に合わせて実践するための基礎資料になった点にあります。
日本のウイスキーづくりは、海外の製法をそのまま模倣するだけでは成立しません。熟成環境や原料の調達、蒸溜設備、職人の育成など、国内で継続的に製造できる仕組みが必要です。
政孝は留学中に得た知識を体系化し、帰国後の仕事につなげました。竹鶴ノートは、技術の伝承を個人の経験だけに依存させず、記録によって再現可能な知識へ変えた資料として評価できます。
なお、竹鶴ノートの背景を知るには、政孝自身の自伝『ウイスキーと私』も参考になります。NHK出版から2014年に改訂復刻版が刊行されており、留学時代やリタとの出会い、ニッカ創業までの歩みを本人の視点から読み取れます。
【リタと鳥井信治郎】人生を変えた結婚と山崎蒸溜所での挑戦
1920年1月8日、スコットランド人女性リタと結婚
スコットランド留学中の1919年、政孝は後に妻となるジェシー・ロベールタ・カウン、通称リタと出会います。
出会いのきっかけは柔道でした。
政孝はグラスゴー大学で知り合った女子学生の家に招かれ、彼女の弟に柔道を教えることになります。その家の長女がリタでした。
当時、異国で暮らしていた政孝とリタは、文学や音楽などの趣味を通じて親しくなっていきます。
しかし、二人の結婚は簡単には認められませんでした。国籍や文化の違いもあり、リタの家族は結婚に反対。竹鶴家も当初は強く反対していました。
それでも二人は結婚を決意し、1920年1月8日、グラスゴーの登記所で婚姻手続きを行いました。
結婚後、政孝はスコットランドに残る覚悟も示していましたが、日本でウイスキーを造るという彼の夢を理解していたリタは、日本へ帰ることを後押ししました。
その後、政孝はヘーゼルバーン蒸溜所で実習を続け、約半年にわたる研究・研修を経て竹鶴ノートをまとめます。1920年11月、リタを伴って日本へ帰国しました。
リタは政孝の夢をどう支えたのか
リタは単に創業者の妻として夫を支えた人物ではありません。
日本での生活に適応しながら、英語やピアノのレッスンなどを通じて地域の人々と交流し、政孝の事業を取り巻く人間関係にもつながっていきました。
ニッカウヰスキーの創業者紹介では、帝塚山周辺の資産家との交流が、後の大日本果汁株式会社設立時の出資協力につながったことも紹介されています。
長期熟成を必要とするウイスキー事業は、設備投資だけでなく、商品が完成するまで会社を維持する資金力も欠かせません。こうした人脈形成は、政孝の独立を支える重要な背景の一つでした。
リタは1961年に64歳で亡くなりました。政孝にとって、人生の重要な時期を共に歩んだかけがえのない伴侶でした。
鳥井信治郎との出会いと寿屋への入社
帰国後、政孝は摂津酒造で本格的なウイスキー製造計画を進めようとしました。
ところが、第一次世界大戦後の不況によって会社の経営状況が悪化。長期間の熟成を必要とするウイスキー事業への投資は難しく、製造計画は会社の役員会で認められませんでした。
政孝は1922年に摂津酒造を退職。その後、化学教師として働くなどして生計を立てました。
転機となったのは1923年です。
日本で本格的なウイスキー製造を目指していた寿屋(現在のサントリー)の創業者、鳥井信治郎が政孝に声をかけました。
鳥井は、スコットランドで本格的な技術を学んだ政孝の経験を高く評価し、蒸溜所建設と製造現場を任せることにしたのです。
政孝は10年間の約束で寿屋に入社しました。
山崎蒸溜所で果たした役割
山崎蒸溜所の建設では、鳥井と政孝の考え方が必ずしも一致していたわけではありません。
政孝は当初、北海道への蒸溜所建設を提案しました。一方、鳥井は大阪から遠くない場所での事業展開を希望し、複数の候補地を検討した結果、京都郊外の山崎を選びました。
山崎は良質な水に恵まれ、湿潤な気候を持つ地域です。ウイスキーの熟成に適した環境を備えていました。
政孝はスコットランドで得た知識を生かし、蒸溜所の設計や設備の手配、製造工程の整備に携わりました。
1924年11月、山崎蒸溜所が完成。政孝は初代工場長として製造を指導し、広島から日本酒造りの杜氏を招いて技術指導も行いました。
そして1929年4月、寿屋は日本初の本格ウイスキーとして「サントリーウイスキー(白札)」を発売します。
ここで重要なのは、山崎蒸溜所の創業者は鳥井信治郎であり、政孝は製造技術と現場の確立を担った人物だということです。両者は当初から対立するライバルだったわけではなく、日本の本格ウイスキーを形にするために協力した関係でした。
【完全年表】竹鶴政孝の生涯とニッカウヰスキー創業までの歩み
竹鶴政孝の人生は、留学、結婚、山崎での経験、独立、そして余市での製造という段階を経て発展しました。主要な出来事を時系列で整理します。
| 年代 | 出来事 | 歴史的な意味・功績 |
|---|---|---|
| 1894年 | 広島県竹原町に誕生 | 造り酒屋の家庭で育つ |
| 1916年 | 摂津酒造に入社 | 本格的な国産ウイスキー計画に関わる |
| 1918年 | スコットランドへ留学 | グラスゴー大学などで化学を学ぶ |
| 1919年 | ロングモーン蒸溜所などで実習。リタと出会う | モルト・グレーン製造技術を習得 |
| 1920年1月 | リタと結婚 | 国際結婚を経て日本での生活を決意 |
| 1920年11月 | リタとともに帰国 | 竹鶴ノートを持ち帰る |
| 1922年 | 摂津酒造を退職 | 本格ウイスキー計画の断念を受けて転機を迎える |
| 1923年6月 | 寿屋に入社 | 鳥井信治郎と本格ウイスキー製造に挑戦 |
| 1924年11月 | 山崎蒸溜所完成 | 初代工場長として製造体制を整備 |
| 1929年4月 | サントリー白札発売 | 日本初の本格ウイスキーが誕生 |
| 1934年3月 | 寿屋を退社 | 独立して北海道での事業を目指す |
| 1934年7月2日 | 大日本果汁株式会社を設立 | ニッカウヰスキーの歴史が始まる |
| 1934年10月 | 余市工場完成 | 余市蒸溜所の基盤を整える |
| 1935年 | ニッカ林檎汁発売 | ウイスキー熟成期間中の事業を展開 |
| 1936年 | ウイスキーの蒸溜開始 | 初の国産ポットスチルを設置 |
| 1940年6月 | 第一号ニッカウヰスキー発売 | 独立後の夢を製品として実現 |
| 1943年 | 取締役社長に就任 | 会社経営を本格的に担う |
| 1952年 | ニッカウヰスキー株式会社に社名変更 | 現在につながる企業名称が定着 |
| 1961年 | 妻リタが逝去 | 64歳で生涯を終える |
| 1979年 | 竹鶴政孝が逝去 | 85歳で生涯を終える |
この年表で特に注目したいのは、1929年の白札発売と1934年の大日本果汁設立の間にある関係です。
政孝は山崎で本格ウイスキーの製造を実現した後、自らの理想とする製造環境を追求するために独立しました。つまり、山崎時代は単なる会社員としての経歴ではなく、ニッカ創業につながる技術と経験を蓄積した時期だったのです。
【ニッカ創業】1934年の大日本果汁設立から1940年の第一号発売まで
なぜ政孝は北海道の余市を選んだのか
1934年3月、政孝は寿屋を退社し、北海道へ向かいます。
同年7月2日、北海道余市町に大日本果汁株式会社を設立しました。これが現在のニッカウヰスキーにつながる企業の出発点です。
会社設立には政孝のほか、加賀商店(後の加賀証券)の創業者である加賀正太郎、帝塚山の大地主だった芝川又四郎、留学中に知り合った柳沢保恵伯爵が出資者として参加しました。
政孝が余市を選んだ理由は、スコットランドに似た気候と、ウイスキー製造に必要な自然環境がそろっていたためです。
余市には冷涼な気候、豊かな水、適度な湿度があり、原料となる大麦やピート、蒸溜に必要な石炭などの条件も備わっていました。
ウイスキーは蒸溜してすぐに完成する酒ではありません。樽の中で長い年月をかけて熟成させる必要があります。そのため、蒸溜所を建設する際には、原料だけでなく熟成環境も慎重に選ばなければなりません。
政孝にとって余市は、単なる工場の建設地ではなく、スコットランドで学んだ製造思想を日本で実現するための理想の場所でした。
大日本果汁という社名に込められた経営戦略
大日本果汁株式会社という社名を見て、ウイスキー会社なのになぜ果汁なのかと疑問に感じる人もいるでしょう。
その理由は、ウイスキーの熟成に時間がかかることにあります。
蒸溜した原酒を樽に詰めても、すぐに販売できるわけではありません。数年間は熟成を待つ必要があり、その間も従業員の給与や設備の維持費などが発生します。
創業当初からウイスキーだけに依存すれば、商品が完成するまで会社の収入を確保できない可能性がありました。
そこで政孝は、北海道の特産品であるリンゴを活用することにしました。
1935年にはリンゴジュース「ニッカ林檎汁」を発売し、1938年には「ニッカアップルワイン」も発売しています。
ただし、リンゴ事業も順調だったわけではありません。ニッカの公式沿革によれば、当初のリンゴジュースなどは売れ行きが厳しく、経営面では苦難が続きました。
それでも政孝はウイスキーの熟成を待ち続け、製造計画を進めました。
この経営判断からは、目先の売り上げだけでなく、長期的な品質と事業の継続を重視する政孝の姿勢が読み取れます。
1936年に蒸溜開始、1940年に第一号ウイスキー発売
1934年10月には余市の北海道工場が完成しました。
1936年、政孝が設計した国産ポットスチルが設置され、ウイスキーの蒸溜が始まります。
余市で採用された製法の特徴の一つが、石炭による直火蒸溜です。
これはスコットランド留学中にロングモーン蒸溜所などで学んだ技術に基づくもので、ポットスチルの底部を石炭で直接加熱します。
火力の調整には熟練した職人の技術が必要ですが、原酒に力強く重厚な風味をもたらす製法として知られています。
そして1940年6月、ついに待望の第一号ウイスキーが完成しました。
商品名は「ニッカウヰスキー」。大日本果汁の「日」と「果」を組み合わせて名付けられたブランドです。同年にはニッカブランデーの第一号も発売されています。
1934年の会社設立から6年。政孝が長年追い続けた本格ウイスキー製造の夢が、ようやく商品という形で実現しました。
戦中・戦後も品質を追求した経営者
1943年、政孝は大日本果汁株式会社の取締役社長に就任しました。
しかし、会社の経営は決して平坦ではありませんでした。戦争や戦後の混乱、原料や資金の問題など、ウイスキー産業を取り巻く環境は厳しいものでした。
戦後には市場の状況に合わせた商品展開も必要となり、政孝は本来の品質へのこだわりと経営の現実との間で難しい判断を迫られます。
1952年には会社名をニッカウヰスキー株式会社へ変更。1954年には朝日麦酒(現在のアサヒビール)が資本参加し、事業の拡大が進みました。
1976年には政孝自身最後のブレンドとなる「鶴」を発売。1979年、85歳で亡くなりました。
独立から晩年まで、政孝が大切にしたのは本格的な製造技術と品質へのこだわりでした。
【功績と実話検証】竹鶴政孝が日本のウイスキー産業に残したもの
功績1:スコットランドの製造技術を体系的に日本へ伝えた
竹鶴政孝の第一の功績は、本場スコットランドのウイスキー製造技術を学び、日本で実践できる形にしたことです。
留学中に習得した技術は、蒸溜工程だけにとどまりません。原料の扱い、設備設計、熟成、ブレンドなど、製造全体を理解したことが重要でした。
特に竹鶴ノートは、現場の経験を詳細に記録した技術資料として、後世に残る価値を持っています。
功績2:山崎と余市という二つの歴史的な蒸溜所に関わった
政孝は山崎蒸溜所で日本初の本格モルトウイスキー製造体制の確立に携わり、その後、余市蒸溜所を自ら創業しました。
この二つの蒸溜所は、異なる環境や製造思想を持っています。
山崎では鳥井信治郎の構想のもと、関西の水と気候を生かしたウイスキーづくりが進められました。一方、余市では政孝がスコットランドで学んだ製法を生かし、冷涼な気候と石炭直火蒸溜を特徴とする製造体制が築かれました。
二つの蒸溜所での経験は、日本のウイスキー産業が多様な個性を持つための重要な基盤となりました。
功績3:熟成を待つ経営と品質第一の姿勢を貫いた
ウイスキー事業は、原酒を仕込んでから商品として販売するまでに長い時間を必要とします。
その間、企業には資金繰りや設備維持などの課題が発生します。政孝がリンゴジュースやアップルワインの販売を進めたのは、こうした事業構造に対応するためでもありました。
短期的な利益だけを優先せず、原酒の熟成を待ち続ける経営姿勢は、後のニッカの製造思想にも受け継がれています。
功績4:余市蒸溜所を歴史的な産業遺産として残した
政孝が創業した余市蒸溜所は、現在も日本のウイスキー史を伝える重要な場所です。
文化庁は2022年、ニッカウヰスキー余市蒸溜所施設の10建造物を国の重要文化財に指定しました。
対象となる施設群には、創業期の製造設備や建築物が含まれています。原材料の加工から仕込み、蒸溜、貯蔵まで、初期のウイスキー製造に関わる施設がまとまって残されている点が高く評価されました。
これは、政孝の功績が企業の成功だけでなく、日本の近代産業史や建築史にも関わることを示しています。
「マッサン」は実話なのか?史実とドラマの違い
竹鶴政孝とリタの人生を広く知らしめた作品が、NHK連続テレビ小説「マッサン」です。
2014年9月から2015年3月まで放送されたこのドラマは、竹鶴夫妻をモデルにした作品です。
ただし、実在の人物をそのまま再現したドキュメンタリーではありません。登場人物の名前や企業名などは変更され、物語として再構成されています。
代表的な対応関係は次のとおりです。
- 亀山政春:竹鶴政孝がモデル
- 亀山エリー:竹鶴リタがモデル
- 鴨居欣次郎:鳥井信治郎がモデル
- 鴨居商店:寿屋がモデル
- 北海道果汁:大日本果汁株式会社がモデル
したがって、ドラマの人物名や会社名を実際の歴史と混同しないことが大切です。
一方、スコットランド留学、リタとの結婚、山崎での仕事、北海道余市での独立という人生の大きな流れは、実際の竹鶴夫妻の歩みを下敷きにしています。
ドラマを楽しんだ後に実際の年表や『ウイスキーと私』を読むと、作品の背景にある歴史をより深く理解できます。
『ウイスキーと私』で分かる竹鶴政孝の人物像
政孝の考え方や人生観を知るうえで参考になるのが、自伝『ウイスキーと私』です。
この本では、スコットランドでの苦労、ウイスキー製造への情熱、リタとの出会い、帰国後の事業の困難などが本人の視点から描かれています。
公式の企業沿革や公的な史料が出来事の時系列を確認するための資料だとすれば、自伝は政孝が何を考え、どのような思いで行動していたのかを理解するための資料です。
特に興味深いのは、彼がウイスキーを単なる酒類の商品としてではなく、時間と技術をかけて完成させるものとして考えていたことです。
その価値観は、現在の余市蒸溜所に残る製法や設備にもつながっています。
【プロの結論】竹鶴政孝の本当の功績は何だったのか
竹鶴政孝の功績を評価する際には、単にニッカウヰスキーを創業した人物という肩書だけで判断するべきではありません。
重要なのは、次の三つの視点です。
- 技術:スコットランドで学んだ製造工程を記録し、日本で再現できる技術体系へと発展させたこと。
- 産業:山崎蒸溜所での経験を経て、余市に独立した製造拠点を築き、国産ウイスキーの生産基盤を拡大したこと。
- 経営思想:熟成に時間がかかるという産業の特性を理解し、困難な時代にも品質を追求し続けたこと。
この三つを合わせて見ると、政孝は単なる酒造会社の経営者ではなく、技術者、製造現場の指導者、そして産業の基盤を築いた起業家だったことが分かります。
また、鳥井信治郎との協力関係と、その後の独立という経歴も重要です。日本のウイスキー産業は、一人の人物だけで完成したものではありません。経営者の構想と技術者の実践が組み合わさることで発展してきました。
竹鶴政孝の歴史を正しく理解するには、山崎での功績と余市での独立を切り離さず、両方を一つの生涯として捉えることが重要です。
【FAQ】竹鶴政孝に関するよくある質問
Q1:竹鶴政孝は何をした人ですか?
A1:ニッカウヰスキーの創業者であり、日本の本格的なウイスキー産業の発展に貢献した人物です。スコットランドで製造技術を学び、山崎蒸溜所の建設・製造に携わった後、1934年に大日本果汁株式会社を設立しました。
Q2:竹鶴政孝はグラスゴー大学を卒業していますか?
A2:卒業したというより、1918年12月からグラスゴー大学などで聴講生として学んでいました。化学の講義に加え、実際の蒸溜所で製造技術を習得したことが大きな特徴です。
Q3:竹鶴政孝とリタはいつ結婚しましたか?
A3:1920年1月8日です。スコットランドのグラスゴーで婚姻手続きを行い、同年11月に二人で日本へ帰国しました。リタは1961年に64歳で亡くなっています。
Q4:竹鶴ノートとは何ですか?
A4:政孝がスコットランド留学中の実習内容をまとめた2冊のノートです。蒸溜技術や設備の構造だけでなく、労働環境や酒税なども記録されており、日本の本格ウイスキー製造の基礎資料となりました。
Q5:鳥井信治郎と竹鶴政孝は対立していたのですか?
A5:最初から対立していたわけではありません。鳥井は政孝の技術を評価して寿屋に迎え、山崎蒸溜所の建設を任せました。蒸溜所の建設地については考え方の違いがありましたが、両者は日本の本格ウイスキー製造に協力した関係です。政孝は1934年3月に契約満了で寿屋を退社しました。
Q6:ニッカウヰスキーの第一号はいつ発売されましたか?
A6:1940年6月です。1934年に大日本果汁株式会社を設立し、1936年に蒸溜を開始してから、熟成期間を経て第一号商品が発売されました。
Q7:「マッサン」は竹鶴政孝の実話ですか?
A7:竹鶴政孝とリタをモデルにしたフィクションです。留学や結婚、ウイスキー製造への挑戦などは実際の人生を下敷きにしていますが、登場人物や企業の名前、物語の展開には創作や脚色が含まれています。
まとめ:竹鶴政孝が残した夢は日本のウイスキー文化へ
竹鶴政孝の生涯は、本場の技術を学ぶためにスコットランドへ渡った青年が、数々の困難を乗り越え、日本で本格的なウイスキー産業を築くまでの歩みでした。
1918年の留学、1920年のリタとの結婚、竹鶴ノートの作成、1923年の寿屋入社、1924年の山崎蒸溜所完成。そして1934年の大日本果汁株式会社設立と1940年の第一号ニッカウヰスキー発売。これらの出来事は、それぞれが日本のウイスキー史における重要な転換点です。
政孝の功績は、単に国産ウイスキーを商品化したことだけではありません。海外で学んだ技術を日本の風土に合わせ、熟成という時間のかかる工程を大切にし、製造現場と経営の両面から産業を育てたことにあります。
2022年には余市蒸溜所の10建造物が国の重要文化財に指定されました。2026年の現在も、創業期の施設や製造技術は、日本のウイスキー産業の歴史を伝えています。
竹鶴政孝の生涯を知る際には、ニッカの創業だけでなく、鳥井信治郎との協力、リタとの人生、そしてスコットランドで得た技術と知識にも目を向けたいところです。
「日本で本物のウイスキーをつくる」という夢を追い続けた技術者の情熱。その挑戦こそが、竹鶴政孝という人物が後世に残した最大の財産です。
主な確認資料・参考史料
- ニッカウヰスキー公式「創業者・竹鶴政孝」「ニッカウヰスキーの歴史」
- 外務省外交史料館「マッサン展―竹鶴政孝と知られざる日本・スコットランド交流史」
- サントリー公式「ウイスキー100年の歴史」「山崎蒸溜所の歴史」
- 文化庁「ニッカウヰスキー余市蒸溜所施設」重要文化財関連資料< CITE_PLACEHOLDER />
- 国立国会図書館「ウイスキーと私」書誌情報< CITE_PLACEHOLDER />
- ジャパニーズウイスキーインフォメーションセンター「日本ウイスキーの歴史」