「ぬかるみの世界」を語るうえで欠かせない出来事が、1980年に実施された「新世界ツアー」です。番組の人気がリスナーの間だけにとどまらず、実際に人々を大阪の街へ動かした象徴的な事件でした。
女子高生の一通の手紙から始まった企画
きっかけは、女子高生リスナーから届いた「新世界に一度来てください」という趣旨の投書でした。
これを受けて番組がリスナーに呼びかけたところ、予想を大きく超える人数が集まることになります。デイリースポーツの2019年の取材記事や2025年の新野新追悼報道によれば、集まった人数は5000人以上に達しました。
当初はリスナーとの交流を目的とした企画でしたが、新世界の街にこれほど大勢の人が集まることは想定されていませんでした。現場は混乱し、通常のツアーを続けることが難しくなります。
新世界パニックとは何だったのか
集まった人々の安全を確保するため、大阪府警の機動隊も対応に加わりました。鶴瓶と新野は予定していたツアーを変更し、参加者を誘導する形で対応したと伝えられています。
番組ディレクターの岩本重義にとっても、忘れられない出来事でした。イベントの規模が想定を超え、警察署や機動隊への対応、始末書の提出にまで発展したと報道されています。
この騒動は「新世界パニック」と呼ばれ、番組の歴史を代表するエピソードになりました。ラジオの呼びかけだけで数千人が動いたという事実は、当時の番組が持っていた影響力の大きさを物語っています。
なぜ新世界ツアーは社会現象になったのか
重要なのは、参加者が有名人を一目見たいという理由だけで集まったわけではないことです。リスナーにとって番組は、毎週同じ時間を共有する仲間のような存在でした。
ラジオの中で語られていた世界が、実際の街に出現する。普段は声しか知らないパーソナリティや、同じ番組を聴く仲間に会える。こうした期待が、予想を超える動員につながったと考えられます。
現在のSNSイベントやファンミーティングにも通じる現象ですが、ぬかるみの世界では、インターネットもスマートフォンもない時代に、ラジオと手紙だけで大規模なコミュニティが成立していた点が特徴的です。
【千房のぬかるみ焼】現在も語り継がれる幻の裏メニューの秘密

大阪のお好み焼き文化を代表するチェーン。ぬかるみの世界との関係は、単なるスポンサーと番組の関係を超えたものだった。
番組と千房の関係を象徴するのが「ぬかるみ焼」です。これは実際に存在した裏メニューで、番組の人気とリスナーの熱狂が飲食店にまで波及した珍しい事例です。
スポンサー不在から千房の協賛へ
千房の公式サイトに掲載された企業の歴史によると、番組は放送開始当初から順調だったわけではありません。日曜深夜という時間帯もあり、約1年間スポンサーがつかない状態が続いていました。
そこで協力したのが、当時の千房の中井政嗣社長です。中井自身がぬかる民であり、鶴瓶とも親交があったことから、番組への協賛を決めました。
番組内で鶴瓶が千房のお好み焼きを自然に話題にしたことで、若いリスナーの間にも店の名前が広まっていきます。広告として商品を紹介するのとは異なり、番組の会話の中に店が登場するという距離感が特徴でした。
幻のメニューが生まれた意外な経緯
ぬかるみ焼の誕生には、鶴瓶のアドリブが関係しています。
ある放送で鶴瓶が「千房に行って、ぬかるみ焼を食べたか」という趣旨の話をしたところ、リスナーが実際に店舗を訪れ、存在しないはずの「ぬかるみ焼」を注文しました。当然、当初は正式なメニューではなかったため、番組には苦情の手紙が届きます。
そこで鶴瓶が中井社長にぬかるみ焼を作ってほしいと依頼。中井は若いリスナーの経済事情も考慮し、ミックス焼を特別価格で提供する方法を考案しました。
ぬかるみ焼の誕生にまつわる数字
当時の通常価格750円
ミックス焼
特別価格600円
ぬかるみ焼として提供
千房の公式サイトに掲載された当時の価格。メニュー表や店頭サンプルには表示せず、注文する人だけが知る裏メニューとして提供されました。
千房の公式説明によれば、この情報が番組で紹介されたのはわずか1回でした。それにもかかわらず、翌日には40枚もの注文が入りました。
その後、注文したリスナーから感謝の手紙が届き、番組で紹介されると、さらに来店者が増加。ラジオの影響力が実際の店舗の集客につながったのです。
2026年現在もぬかるみ焼は注文できる?
千房の公式サイトでは、現在も「ぬかるみ焼」が裏メニューとして存在し、全国の店舗で注文可能と案内されています。
つまり、ぬかるみ焼は単なる昭和の思い出ではありません。番組が終了してから長い年月が経過しても、企業の歴史に残り続けている特別なメニューです。
実際に注文する場合は、店舗スタッフに「ぬかるみ焼」と伝えるのがポイントです。通常のメニュー表に掲載されていないこと自体が、このメニューの歴史を物語っています。
【新野新の死去と2025年追悼特番】鶴瓶が一人で語った恩人との思い出
2025年、ぬかるみの世界を長年支えてきた新野新が90歳で亡くなりました。その訃報は、かつて番組を聴いていた人々だけでなく、関西の放送業界にも大きな節目となりました。
1935年2月23日生まれ。大阪府出身。早稲田大学卒業後、放送作家として活動し、関西のテレビ・ラジオで幅広く活躍した。
1935年2月23日~2025年9月25日(90歳)
新野新の死去と経緯
新野新は2025年9月25日午後8時2分、大阪市内の病院で老衰のため亡くなりました。90歳でした。門弟一同による発表を受け、スポーツ紙や各報道機関が10月2日に訃報を伝えています。
葬儀・告別式は近親者のみで執り行われました。また、お別れの会は生前に行われていたため、改めて開催する予定はないと報じられています。
新野は1935年に大阪で生まれ、1958年に早稲田大学を卒業。北野劇場の演出助手を経て、テレビ草創期から放送作家として活動しました。その後はタレントとしても活躍し、ABCテレビの「晴れ時々たかじん」や読売テレビの「今夜なに色?」などにも出演しています。
2025年6月には卒寿を記念し、本人や著名人の証言を交えた著書『小バラ色の人生 新野新で語る大阪放送界史』も出版されました。亡くなる年まで、自身の歩んできた放送人生が記録されていたことになります。
2025年12月21日「鶴瓶ひとりのぬかるみの世界」が放送
新野の死去を受け、ラジオ大阪は追悼特別番組の放送を決定しました。
番組名は「新野新さんを偲ぶ 鶴瓶ひとりのぬかるみの世界」。2025年12月21日(日)の深夜24時から25時30分まで、生放送されました。
本来の番組は鶴瓶と新野の二人によるトークでしたが、追悼特番では鶴瓶が一人で出演。全国のぬかる民から寄せられた投書を紹介しながら、新野との思い出を語りました。
注目されたのは、当時の番組ディレクターだった岩本重義と、番組をスポンサーとして支えた千房の中井政嗣会長も立ち会ったことです。出演者、制作スタッフ、スポンサー、リスナーが再び同じ場所に集まる機会になりました。
鶴瓶が語った新野新への感謝
追悼特番では、鶴瓶が新野との関係について、次のように振り返っています。
新野新という人に、「おもろない」と言えるのが本当に嬉しかったですね。
この言葉から伝わるのは、単なる仕事仲間ではない二人の関係です。
鶴瓶は、放送作家である新野が自由にやっていいと認めてくれたことで、自身の芸風が形成されていったと回想しました。新野とのやり取りが、現在につながる話術や物事の捉え方に影響を与えたというのです。
さらに鶴瓶は、新野がいたからこそ、現在の自分があるという趣旨の感謝も伝えています。追悼番組は、亡くなったパートナーを偲ぶだけでなく、二人が築いた番組の意味を改めて確かめる放送になりました。
番組後半では、過去のコーナー「全国縦断ぬかるみ電話」に出演した経験のある北海道・帯広在住の女性リスナーとも電話をつなぎました。地域を越えて続いてきた番組のつながりが、ここでも表れています。
鶴瓶は今後についても、「ぬかるみの世界」を語り合う会や、新野について皆で話す機会を設ける可能性に言及しました。
【ギャラクシー賞の評価】ぬかるみの世界は放送史に何を残したのか?
「ぬかるみの世界」は、リスナーの熱狂だけで評価された番組ではありません。放送文化の観点からも記録が残っています。
放送批評懇談会の公式アーカイブでは、1980年度の第18回ギャラクシー賞において、同番組が選奨作品として掲載されています。
ここで注意したいのは、ギャラクシー賞の大賞・通常のギャラクシー賞受賞作品と、選奨作品は区別されていることです。番組について「1981年のギャラクシー賞を受賞した」と紹介する記事もありますが、公式記録上の正確な位置づけは1980年度の選奨です。
番組の社会的影響や日曜深夜のラジオ文化への貢献を語る際には、この公式記録に沿って理解するのが適切です。
番組が当時のラジオ文化に与えた影響
ぬかるみの世界の特徴は、出演者のトークを聴かせるだけでなく、リスナーの生活や価値観を番組の中心に取り込んだことです。
従来のラジオ番組では、パーソナリティが話し、リスナーが聴くという構図が基本でした。しかし、この番組ではリスナーの手紙が次の放送の話題になり、話題がさらに別のリスナーの投稿を生み出すという循環が成立していました。
この仕組みは、現在のSNSにおけるコミュニティ形成や、リスナー参加型のポッドキャストにも通じます。ただし、当時の番組はリアルタイムの反応を画面上で確認できない時代に、手紙という時間のかかる媒体を使って、この関係を築いていた点に独自性があります。
【プロの結論】ぬかるみの世界が今も色あせない3つの理由
番組の歴史を振り返ると、長く愛されるコンテンツには、単純な知名度や出演者の人気だけでは説明できない要素があることが分かります。
ぬかるみの世界が今も語り継がれる理由は、次の3点に集約できます。
1.出演者同士の関係が本物だったこと
鶴瓶と新野は、互いの考えを率直にぶつけ合える関係でした。どちらか一方が相手を持ち上げるだけの番組ではなく、意見の違いも笑いに変える会話がありました。
2.リスナーを消費者ではなく仲間として扱ったこと
週500通の手紙や新世界ツアーの熱狂は、番組とリスナーの距離の近さを示しています。ぬかる民という共通の呼び名は、聴取者に帰属意識を与えました。
3.番組の外側にも文化を残したこと
新世界ツアー、ぬかるみ焼、番組本、ギャラクシー賞の選奨など、ラジオの外にも多くの足跡を残しました。番組が終了しても、関係者や企業、リスナーの記憶に具体的な形で残り続けているのです。
2025年の追悼特番は、この3つの要素が現在まで受け継がれていることを示しました。新野が亡くなった後も、鶴瓶とぬかる民が番組の思い出を共有できたのは、長年にわたって築かれた関係があったからです。
【よくある質問】ぬかるみの世界に関するFAQ
Q1:ぬかるみの世界はいつからいつまで放送されていましたか?
1978年4月9日から1989年10月1日まで、ラジオ大阪で約11年半にわたって放送されました。毎週日曜日の深夜に放送され、笑福亭鶴瓶と新野新がパーソナリティを務めました。
Q2:ぬかる民とはどういう意味ですか?
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」を聴いていたリスナーの呼び名です。熱心なファンを指す言葉で、番組への参加意識や仲間意識を表しています。
Q3:新世界パニックでは何人集まったのですか?
1980年の新世界ツアーには5000人以上が集まりました。女子高生リスナーの投書をきっかけに企画されましたが、予想を超える人数となり、大阪府警の機動隊も対応する騒動に発展しました。
Q4:新野新はいつ、何歳で亡くなりましたか?
2025年9月25日午後8時2分、大阪市内の病院で老衰のため亡くなりました。90歳でした。訃報は10月2日に門弟一同の発表を受けて報道されました。
Q5:2025年12月21日の追悼特番には誰が出演しましたか?
「新野新さんを偲ぶ 鶴瓶ひとりのぬかるみの世界」という番組で、笑福亭鶴瓶が出演しました。岩本重義ディレクターや千房の中井政嗣会長も立ち会い、リスナーから届いた便りを紹介しながら新野との思い出を語りました。
Q6:千房のぬかるみ焼は2026年現在も注文できますか?
はい。千房の公式サイトでは、現在も裏メニューとして存在し、全国の店舗で注文可能と案内されています。メニュー表には通常掲載されていないため、店頭で「ぬかるみ焼」と伝えてください。
Q7:ぬかるみの世界はギャラクシー賞を受賞していますか?
放送批評懇談会の公式アーカイブでは、1980年度(第18回)のギャラクシー賞における選奨作品として掲載されています。通常のギャラクシー賞受賞作品とは区別して紹介するのが正確です。
まとめ:ぬかるみの世界は昭和の深夜ラジオを超えた文化だった
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、1978年から1989年までラジオ大阪で放送された深夜番組です。笑福亭鶴瓶と新野新の自由な会話、週500通に及ぶ投書、ぬかる民の熱狂が、ほかにはない番組文化を生み出しました。
新世界ツアーで5000人以上が集まった騒動、千房のぬかるみ焼、ギャラクシー賞の選奨など、その影響はラジオの枠を超えていました。
そして2025年9月、新野新が90歳で亡くなったことを受け、同年12月21日に鶴瓶が一人で語る追悼特番が実現しました。かつてのリスナーから届いた便りや、岩本重義、千房の中井政嗣ら関係者の参加は、番組が残した絆の強さを改めて示しました。
2026年現在、番組そのものは終了しています。しかし、千房の裏メニューや関係者の証言、リスナーの記憶には、その存在が残っています。
ぬかるみの世界の本当の価値は、人気番組を作ったことだけではありません。ラジオを通じて、出演者とリスナーが一緒に笑い、考え、つながる場所を作ったことにあります。新野新が亡くなった後も語り継がれる理由は、そこにあるのです。